Hakki Devrim コラム:オズキョクとベルカンが喧嘩しているのだとすると・・・
2007年10月06日付 Radikal 紙

イスメト・ベルカンのコラム(『ラディカル』10月3日付け)の題名は「女性が何処にいて欲しいと我々は望んでいるのか?」であった。エルトゥールル・オズキョクは、やはり問いかけを含んだ回答(となるコラム)を掲載したが、それが「それは父親のもとか、夫のもとではないか?」(『ヒュッリイェト』10月4日付け)であった。ベルカンは、筋金入りの頑固者のはずだ。そして再度(コラムの題名でこう)問いかけている。「女性は家に居ろというのか?」(『ラディカル』10月5日付け)。皆さんと同じく、『ラディカル』と『ヒュッリイェト』のコラムニストたちもきっとこれらのコラムを読んでいる。

少しばかり、話し合ってみればどうかと私は口にしたわけです。

こんなことが読者の脳裏には浮かんだのだった。

「御両人は喧嘩してるのか?」

いいえ、断じてそうではありません!言い争いやら、喧嘩やらは脇において、双方が互いを傷つけないように、細心の注意を払っているのです。「イスメト・ベルカンは、私が非常に尊敬しているコラムニストであり、また思想家である」とオズキョクは述べている。[その発言が]見ぬふりをしてやり過ごされた訳ではなく、翌日には、ベルカンがすかさず、「私などを思想家と呼んでいただけて、自分のプライドがくすぐられないはずはなかった」と謝意を表している。

「何にせよ、貴方もドアニスタン[「ドアン(人)の国/地」の意。ドアン・ホールディングス傘下の3紙を意図した造語:訳者]の国民であり、互いに馴れ合わないはずがないではないか?」

そんなふうに貴方がもしも仰るのであれば、私はそういう貴方が、新聞やコラムをしっかりと読み込んでいない方だという結論を下すことになる。注意の行き届いた読者の方であればよくよくご存知のように、ドアニスタンの民は、他の民よりも、互いに切磋琢磨することをよしとするのである。[ことわざで]「最も賢なる者は木によりかかる」と語った村人のごとき大ベテランの一人である畢生でさえ、この歳にもなって、本紙の出版評議会に訴えられたのだ。訴えたのは、ラディカルの女性コラムニストのうちのひとりであった。

オズキョクとベルカンの間で全く意見の一致をみなかった問題は、トルコの女性たちが[スカーフで]頭を覆うことについてである。しかし、ひょっとすると、彼らは読者が思っていたのとはかなり異なった次元で議論を展開していたのかもしれない、などとご自身を早々と過小評価なさいませんように!いまだ「『スカーフ』をバシュオルトゥスと呼ぶか、トゥルバンと呼ぶか」という問題についてさえ解決を見ていないのですから。片方は「まず名称を定義しましょう」と言い張っているし、もう片方は、「名称はそれほど重要ではない」と言って満足している。ベルカンは「我々は何よりもまず、トルコの女性がどこに居て欲しいのかを決めるべきである」と語っている。しかし、[だからといって、ベルカンが]この主張で、オズキョクのコラムニストとしての能力を殺いでしまおうと望んでいるわけではない。ベルカンは、この同僚[オズキョク]がトルコにおけるオピニオン・リーダーだと認めているのだ。

言えることはそれだけだ!

これらを読んでいて、私は、覆い布で頭部を美しく飾っていた昔の女性たちのことを思い出している。彼女たちは、結び損ねた人を「あぁ、何でそんな風になるのかねぇ。アナタ、頭を覆ってそこのバッカル[雑貨屋]まで行っておいでって言われた子供じゃないんだから。頭をどうにかこうにか覆って結んだって風だわ」とからかうのだった。

「えぇ、昔の女性はきっと今より幸せだったんだ」と仰いますかね?

私たちも、自分の娘たちを見て心配にはなるのですけどねぇ・・・。[だからといって]受け入れられる話ではないのです!

【中略】

■失われたもの―ー古きよき新聞、そして憧れ

ジャーナリストの仕事は、スポーツのなかでは、最もボクシングに似ている。[読み手に]喧嘩のように思われたり、喝采されたりブーイングされるような主張のやり取りは、真のジャーナリストにとって、リング上の対戦と何ら変わるところはない。審判のホイッスルでプロの戦いが決着するのである。

よくは分からないのだが、ペンを武器のごとく扱うことができない方々にとっては、恐らくこういった主張のやり取りは試合なんぞの話ではなくて、本物の喧嘩である。片方でオズキョクとベルカンがやり合っている様子について書きながら、私は晴れ晴れした気分になった。何をおいても、知性を感じられるような、そして、ペンがその手に馴染んでいるようなジャーナリストに私は心を奪われるのだ。彼らが気前の良いところをみせて私に反論してくれると分かっているなら、私も口をはさみたいくらいだ・・・。

トゥルバンとバシュオルトゥスの抽象的な定義の問題に限らず、この両者が書いたことを読んでいたら、我々の職業がいったいどこに端を発し、どんなふうに現在の状況になったのかということについても考え込むことになった。

当初、新聞は、問題意識を持った人物の声を、より多くの人々に聴いてもらうことに長けたコミュニュケーションの手段だった。人々は新聞をどんどん刊行した。誰もが大衆に語りかけるべき何かを備えた思想家であり、政治家であり、文学者であった・・・。各々が皆、舌鋒鋭い人々だった!ヒュセイン・ジャーヒト・ヤルチュン、ヴェリド・エブッズィヤといった『ハリス』紙に集った人々。雑誌に集った人々では『イジュティハード』誌のアブドゥッラー・ジェヴデトもまたプロのひとりであった。但し、それと同時に、出版業をひとつの仕事、職業だと捉えたプロは、私の見るところ、『セルベティ・フュヌーン』誌のアフメト・イフサン(トクギョズ)である。

こういった第一世代の達人、先輩がただと我々が理解しているアフメト・エミン・ヤルマン、ファリフ・ルフクゥ・アタイ、セダト・スィマーヴィ、ジハード・ババンといった人々の頃までは、新聞の発行人と主筆が同じ人物だった。唯そのひと一人だけだったのだ。

手にペンを持たない新聞発行人が登場するのは、第二次世界大戦後のこと。ハリル・ルトフィ・ドルドゥンジュ、サファ・クルチュルオール、ハビビ・エディップ・トレハン、マーリク・ヨラチ、アイドゥン・ドアンといった人々である・・・。

雇われ主筆[の登場]もこの時期で、その嚆矢は、アブディ・イペクチであったように思う。その他については(数も多くはなく)皆さんご存知の通りである。

大筋に従ってみれば、これは[新聞運営が]個人から組織へと向かっていく道のりであり、これは、初期の「職業」ジャーナリスト[だけ]によって実現されうるような展開ではなかったのである。今日をご覧になれば、発行人その人と同一視できるような新聞や雑誌を見つけるのが難しいことだとお分かりになるはずです。

我々が到達した地点が、こうなるより他にはありえないのだと信じればこそ、いったいどんな価値があるのかを、我々が自覚するほかにない、と私は言うことにする。自らの自然な心の成り行きに任せてみても、両者が全く一致するような新聞と発行人との共同作業に対する憧れはこれっぽっちも感じない。新聞を個人化しようとする人々には、はなからどうも馴染めないのだ。

我々の時代のジャーナリスト稼業はチームスポーツだ。皆が自分のレーンを[ひとり気儘に]突っ走ることは不可能なのだ。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:12114 )