海外の映画祭の功罪
2007年10月08日付 Jam-e Jam 紙
写真:ISNA〔この写真は、ベルリン映画祭銀熊賞を受賞したパナーヒー監督の『オフサイド・ガールズ』 (2006)から取られたもの。女性がサッカー・スタジアムに入場できないことを皮肉った映画。〕
写真:ISNA〔この写真は、ベルリン映画祭銀熊賞を受賞したパナーヒー監督の『オフサイド・ガールズ』 (2006)から取られたもの。女性がサッカー・スタジアムに入場できないことを皮肉った映画。〕

【メディア部:メフディー・ゴラームヘイダリー】連日、イラン映画が海外の映画祭で賞を受賞したとのニュースを、われわれはさまざまなメディアや新聞で見たり読んだりし、恐らくは少しばかりの興奮を覚えたりもしている。こういったことにわれわれが慣れっこになってしまってから、すでに20年以上が経つが、この傾向は今後も続くことが予想されるし、我が国の映画制作者たちも程度の差こそあれ、手土産をたくさんもって帰国することだろう。しかしこのような賞の受賞が、どれだけイラン映画の方向付けに影響を与えているのか、議論の余地があるのも事実だ。もし我が国の映画が海外の派手な映画祭の罠に落ちてなどいないのだとすれば、現在の状況はもっとよいものになっているはずではないだろうか。

 もしこれらの賞がなければ、われわれの映画作品、より根本的にはわれわれの文化は、然るべき度合いで〔世界に〕認知されなかったのではないか、との疑問もおそらくあろう。しかしこれは物事のほんの一面に過ぎない。というのも、賞を受賞した作品の内容を見るならば、映画制作者たちがいかに海外の映画祭の趣味に合わせてカメラを回しているかが分かるからだ。さらに言えば、国内の視聴者たちの関心などにこれっぽっちも注意を払うことなく、いつか海外の映画祭で注目を浴びるはずだとの思惑から、多くの作品が上映されないまま、倉庫の片隅でほこりをかぶっているのである。

 大統領芸術担当顧問で、イラン映画の監督でもあるジャヴァード・シャムガドリー氏は、海外の映画祭がイラン映画の方向付けにどれ程の影響を与えているのかとのジャーメ・ジャム紙の質問に対して、次のように答えている。
芸術家というものは、観られること、自らの作品が他者の注目を浴びることを願うものである。国際的な映画祭は、このような欲求を最大限利用している。彼らは自らの政治的・文化的目的に適い、一つのプロパガンダ的・文化的道具として支配体制を強化・称賛し、反対に自由な諸国民と彼らの自由と独立を希求する運動を侮蔑・攻撃する映画作品に注目を寄せる。彼らはこの種の映画や映画制作者たちを紹介することで、事実上標的となった国の一部の種類の映画を支援し普及させようとするのである。

 同顧問は、さらに次のように続ける。
このようなシナリオがイラン映画に重大かつ基本的な影響を与えてから、まさに何年にもなる。彼らはイスラーム国イランの状況やイスラーム革命の文化的な信条について、陰鬱で不適切な姿を世界の観客たちの意識に刻み込むことに成功した。それだけではない。彼らはまた、我が祖国の芸術的な才能を事実上、浪費させ、映画制作者たちを自らに奉仕させ、偉大なるイラン国民とその願望に対する自らの敵意のためにもてあそんでいる。彼らは、映画に隠れてイスラーム国イランのイメージを激しく攻撃し、自らの不能ぶりとコンプレックスを慰撫しているのだ。その一方で彼らは、効果的で不朽の現代メディアである映画がイスラーム革命のメッセージを伝えることを、許そうとしないのである。

 これに対して、別の見方を取る者もいる。海外の映画祭でいくつかの賞を受賞した経験をもつ映画制作者のアボル・ファズル・ジャリーリー氏は、このことについて、次のように語る。
映画祭に「イラン的」とか「外国的」といったものはない。映画祭は映画祭だ。どの映画祭もそれぞれの規定・性格付けというものがある。イランの映画祭であれ、海外の映画祭であれ、それに変わりはない。例えば環境問題をテーマにした映画祭では、規定で環境破壊をテーマとした映画が受け容れられることになっている。そのような映画がイランで制作されようと、あるいは欧米で制作されようと、「この映画祭はイラン人映画制作者に対して、賞を取りたければ環境破壊をテーマとした映画を制作するよう要求している」などと不満を口にすることなどできないのだ。

どの映画祭もそれぞれのテーマと追求していて、自らの目的に共鳴する作品だけを選び出し、その中から最終的に賞を与えている、という見方もある。しかしだからといって、映画祭の側が映画制作者に対して「こんな映画を作ってくれ」などと要求するようなものではないのである。

〔中略〕

 いずれにせよ、一つだけ明らかなことがある。それは、イラン映画は現在よい状態にはないということである。多くの作品が、映画の制作・配給にとってもっとも重要な目的であるところの、「観客の獲得」を目的として制作されていないように思われる。賞を獲得した主要な映画作品が〔イラン国内で〕まったく上映されないとは、どういうことなのだろうか。賞を獲得した作品の監督らに関するニュースは、連日のように新聞の芸術・映画面に掲載されているというのに。

 果たしてこれらの映画に賞が与えられたというのは、事実なのだろうか。そして、このような〔海外で賞を獲得した〕映画はどれだけ、〔イラン国内の〕観客の関心を引くことのできる代物なのだろうか。シャムガドリー大統領顧問は、次のように指摘している。
政治上・プロパガンダ上の目的を中心とした価値判断が行われる場合、〔賞を授与する際の〕選択や優劣付けの規準もまた、これらの価値判断に影響されることになる。海外の観客たちは、イランの現実の姿を知らず、毎朝毎晩、自国のマス・メディアや衛星放送から、イランに関する陰鬱で混乱した姿を受け取っているために、イラン人監督の手によって制作されたこれらの映画を観ることで、〔欧米メディアが伝えるイランの陰鬱な姿が〕証明されたと思い込んでしまう。イスラーム国イランを知ろうとする意欲はなくなり、イランを悪の権化だと考えてしまう。彼らは自国のメディアを信用しているが、そのような信用は危険だ。そのような信用を背景として、これらのメディアはある重大な時に、イランに対して大打撃を加える可能性があるからだ。

 シャムガドリー顧問はさらに、次のように続ける。
これらの〔海外の映画祭で賞を受賞した〕映画は、イランを知らない海外の観客向けに作られている。というのも、イラン人の観客にとって、映画で偉大なるイランが誤って描写され、誇張されていることは明らかだからだ。これらの映画は、一種の自虐であり、文化的マゾヒズムである。こんなものを好む国民などどこにもいない。統計によれば、この種の映画はイラン人観客の半分も映画館に呼び込むことはできない。いずれにせよ、イラン映画が陥っている危険な状況はこれまで以上に、国のマクロな文化行政において再検討されるべきであるように思われる。

〔後略〕

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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:12168 )