圧力がムスリムたちを区分けした
2007年10月04日付 Milliyet 紙

圧力がある。
その名が「隣人からの圧力」だとしても、他のものだとしても...
圧力がある。
この圧力は自分が信心深いと考えている一部の者たちから来ている。
では、圧力の対象となっている者たち、つまり圧力の下にいる者たちはムスリムではないのか?その宗教に帰依している者ではないのか?
私の考えでは、彼らもムスリムである。彼らも自分たちの宗教に帰依している。
つまり圧力をかけている者たちも、圧力を被っている人たちもムスリムである。
双方ともがムスリムなのだ。
それならば、この圧力をかけている者たちは何の名の下にこの圧力をかけているのか?
だからこそこれに対する答えは重要である。
この前者は、つまり圧力をかけている者たちは、私の考えではこの圧力を政治的目的で行っているということだ。
つまり、彼らは政権を手に入れることを望んでいるのだ。
彼らはこれを公正と発展党を与党とすることによって実現しなかったのであろうか?
彼らは実現したのである。
しかし、彼らはこれで甘んじてはいない。将来必要ともあれば、彼らは公正と発展党をつぶし、引き続き絶えず政権を握り続けること、政権にとどまることを望んでいるのである。
そして、彼らは多様性を望んでいない。多様性をなくしたいのである。
誰もが自分たちのようになることを望んでいるのである。
後者の外装、外観も私たちのようにしなさい、と言いたいのである。
そうであるならば、彼らにとって外装、スカーフはあるイデオロギーの徽章ではないのか、シンボルではないのか?
ある政党への結びつきを示してはいないか?
前者はこの姿勢で後者をイスラームから遠ざけてしまってはいないか?彼らの行動はこの疑問を思い起こさせないだろうか?宗教、つまりイスラームは彼らの手の内にあるのか?
***
先日、私は今書いてきたことの実例を体験した。
役所に妻と一緒に行かなければならなかった。もっと正確に言えば、妻の用事があり私は彼女に付き添っていた。
私の妻は何年間もラマザン月の間中断食をしている。やはり妻は断食をしていた。
この役所から中に入る時、スカーフをした女性公務員が罵倒するかのように見ていた。
しかし、この女性も私の妻も、両方ともムスリムだったが外装は異なっていた。
最も興味深いことにこの役所にある「お茶飲み場」は閉鎖していた。そう、ラマザン月だったのだ。誰もお茶を飲んではいけなかった。
一般化するのは正しくないし、私も一般化を避けているが、これは、「我こそはムスリムだ」と言う者たちがムスリムたちを区分けしていることは真実なのだ...

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( 翻訳者:藤井 庸平 )
( 記事ID:12193 )