Turker Alkan コラム:現代に息づくスルタンの伝統
2007年10月18日付 Radikal 紙

メフメト4世[在位1648-1687]の皇子ムスタファとアフメトの割礼の祝宴は15日間続いたのであった。国家の文武を担う高官たちをはじめとして誰も彼もが招待された。帝国の官人は皆、スルタンの衣の裾にくちづけて、神の恵みを乞う祈りの言葉を述べた。そして、皇子たちに祝いの品々を献上した。真珠があしらわれダイヤの象嵌が施された書物、ダイヤで装飾されたターバン飾り、馬、上等な織物や衣装、ダイヤが嵌め込まれた三日月刀・・・
祝い品の献上が済むと、饗宴が始まった。タンブールとネイが奏でられ、舞が舞われ、曲芸が披露された。花火が打ち上げられ、広場には明かりがともされた。
2日目にはシェイヒュル・イスラームとウラマーが宴席に招待された。3日目には別のウラマーが招待され、その際に300人の子供に割礼が施された。4日目にはスィパーヒーたちが招待され、更に300人の子供に割礼が施された。その間にも民衆を喜ばせるような催し物は絶え間なく続けられていた。5日目、イェニチェリたちが宴席に招待され、更に300人の子供たちに割礼が施された。7日目には、リカービィ・ヒュマユーン・アーラル[*]に食事が振舞われ、更に300人の子供たちに割礼が施された。
この饗宴は15日間続き、エスナフ[ギルドに属する商人や職人たち]は通りをねり歩き、民衆はそれを見物し、奴隷たちは解放された。ガレー船とガレオン船が宮殿の中庭に運び込まれ、ゾウや馬といった動物の形をした飴細工が作られた。15日目には、スルタンが様々な品物を下賜して祝宴は終わりを迎えた。

社会に定着し[てしまっ]たものの見方がある。つまり、アタテュルク主義の流れを汲む人々というのは、民衆からは程遠く、民衆をてっぺんから見下ろす人々であって、それとは逆に、民主党、公正党、福祉党、公正発展党の流れを汲む人々はといえば、慎み深い民衆の側の人々であり、派手さを誇るのを好まず、民衆とともに否定的な諸条件を分ち合う人々なのだ、とされる。
更に、エルドアン首相は、度々「[自分は]反エリートである」と口に出し、この[両者の]区別に現実味をもたせておこうとしている。

本当にそうだろうか?先頃、ギュル大統領の娘が結婚した。何千人もの招待客が出席し、何千人もの警官が任務にあたる大仰な式だった。おそらく、共和国史上最も列席者の多い結婚式だ。
どうしてなのだろう?この答えを私は見つけられずにいる。人間というのは、いったいどれだけ列席者がいれば、大統領職にあること以上の誇りを得られるのだろうか?
「たまたまの話だろう」と言っていいのだろうか?私はそうではないと思う。「派手ごのみ気質」が、この政治的伝統の本質には存在するように思われる。ネジメッティン・エルバカンが娘のために行った結婚式、エルドアン首相が息子のために行った結婚式・・・。
皆がみな、スルタンの派手な生活に密かな憧れを抱いているのではないか、と私は思わずにいられないのである。

それに対して、エルドアン首相が「エリート主義」だと非難する人々の結婚式をご覧あれ。アフメト・ネジュデト・セゼルは、大統領として[在任中に]息子を結婚させたが、私たちは気付きもしなかった。
アタテュルクは結婚したけれど、結婚式には何人が招待されたのか?またご祝儀をかき集めたのだろうか?
イノニュは何人の子供を結婚させたのだったか。国家の要人たちを結婚式に招待してご祝儀用に袋を回していれば、何度楽して儲けていたことか。
しかし、彼らはそんなことはしなかった。
彼らは、やり方を心得ていて、かつ、うまくやってのけられるような類の指導者ではなかったとされる。

エルドアン、公正発展党員、そして彼らを支持するリベラルな知識人たちが、アタテュルク主義者たちに向かって「エリート主義」だと非難しているのも、私が理解に苦しむところだ。1950年以降のこの国を取り仕切っているのはどなたか?イスタンブル資本にしても、アナトリア資本にしても、当の財源を握っているのはどなたか?
オザルの言い方を借りるなら、楽して大儲けしているのはどなたか?
エリートとは、いったい誰のことなのだろう?


○リカービィ・ヒュマユーン・アーラル
オゼンギ・アーラルとも。スルタンの外出時に、その傍らに随従することを許されアーの称号をもつ一群の官人のこと。

日本語でアクセスできるより詳しい解説については、
・鈴木董『オスマン帝国の権力とエリート』東京大学出版会 1993年 124頁
を参照のこと

Tweet
シェア


現地の新聞はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:12194 )