Ozdemir Ince コラム:宗教は国家の監督下に置かれ「なければならない」
2007年10月19日付 Hurriyet 紙

世俗主義の小学校での定義である「宗教と国家の領域の分離」から話を発展させて、思想的な工作を行っている人々がいる。そうした人々は続けて「トルコではまさに、宗教は国家の圧力の下にある」と悲壮な声を上げている。
宗教と国家の領域の分離ということからすれば、両者とも互いの役割に干渉してはならないらしい。しかし世俗的国家が宗教を監督しなければ世俗主義は成り立たないし成り立ちえない。(そうでなければ)とくにムスリム諸国において、(イスラ-ム法を排除した)単一の法と、(宗教教育を排した)教育の統一は成り立たない。

宗教と良心の自由は人間の基本的人権に含まれ、人権憲章に書かれているが、世俗主義はまた別のものである。世俗主義はこれらを担保するものである。にもかかわらずトルコの右派は世俗主義を薄めるためにこの公式を利用している。アドナン・メンデレス以来。
話の核心に迫るために、「カエサルのものはカエサルに」という言葉の基となった聖書の話を取り上げよう。
話はマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書に登場する。聖書の悪人であるパリサイ人は、イエスを罠に掛けるために策略を仕掛け、ヘロデ王の家来とともに自分たちの家来をイエスのもとに送った。以下マルコによる福音書より引用する:

■カエサルのものはカエサルに

「彼(=イエス)のもとに遣わしてこう言わせた。『先生、わたしたちはあなたが正直な方で、だれに対しても真実をもって神の道を教えられることを知っています。あなたはだれをもえこひいきすることがないからです。それで、わたしたちに教えてください。カエサルに税金を払うことは許されているでしょうか、許されていないでしょうか』。しかし彼は、彼らの邪悪さに気づいて、こう言った。『偽善者たち、なぜあなた方はわたしを試すのか。税の貨幣をわたしに見せなさい』。彼らは彼のもとに1デナリオスを持って来た。彼は彼らに言った、『これはだれの像と銘なのか』。彼らは彼に言った、『カエサルのです』。すると彼は彼らに答えた、『それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい』」。(マタイによる福音書  22:15-22※1)しかし教会はイエスのこの言葉を聞かずに、国と民衆を長い間圧力の下に置いた。
アメリカの人々がアングロサクソンのセキュラリズム(※2)とヨーロッパ-フランス-トルコのラーイクリッキ(※2)の違いを理解しないのは当然のことだと受け止められるが、ケマリズムを「国家による宗教の監督、宗教と良心の自由の制限」と定義するシャーヒン・アルパイ(※3)(テンポ誌、2004年10月7日号)には何と言うべきか?

■セキュラリズムvsラーイクリッキ

アングロサクソンのセキュラリズムは、ルターのプロテスタント革命に端を発する。カトリック教会とカトリック国家による圧力にさいなまれたプロテスタント教徒は、アメリカに渡った(アメリカに最初に行ったのはプロテスタント教徒である)。この新しい土地で自分たちの教会を建て、教会の周りで組織を作ってまとまった。アングロサクソンのセキュラリズムは、プロテスタント教会と民衆の国家に抗する協力から生まれた。目的は、国家権力とその権威を制限することだった。このような秩序の中で、アメリカの例にあるように国家は宗教に対して守勢に立っている。

1789年のフランス革命を、民衆は国家や国家を代表する名士層、教会や教会を代表する聖職者階層に対して行った。1789年革命の産物であるラーイクリッキは、民衆と民衆の作った革命国家の教会に抗する協力から生まれた。ラーイクリッキの目的は、教会(宗教)の権力と権威を制限することであった。セキュラリズムとラーイクリッキの違いは、複雑な物理学の問題ではない。とても単純だ!理解する意志さえあれば十分だ。キリスト教は地表を統治することをあきらめたので問題はない。しかし国家は、国家を支配するという主張を放棄していないイスラーム主義者の「イスラーム宗教」をきっと監督下に置くだろう。しかし、共和国政府が1950年からこの監督の仕事をことさらしてこなかったことを我々は見てきている。


(※1)日本語訳は「電網聖書」のものを参照させていただいた。
(※2)どちらも日本語訳は「世俗主義」。
(※3)ザマン紙コラムニスト

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:12234 )