Can Dundar コラム:怒りよ、どこへ向かう?
2007年10月23日付 Milliyet 紙

日曜の晩... 窓からスローガンが聞こえてくる。
大学の同じ寮で、隣同士の部屋で、もしかしたら同じ2段ベッドに寝泊りしている若者たちが互いに向き合って陣取っている。
「くそ食らえPKK(クルド労働者党)」と叫ぶ若者たちにもう一方がこう応酬する:
「諸民族の兄弟愛万歳!...」
昨日ある新聞記者の先輩と電話で話したとき、彼の妻が受話器を奪って、怒りをたたえた声でこう尋ねた:
「テロ抗議運動を見ているけど、その中にイスラーム風スカーフをした人は1人もいない... あの人たちはどこにいるの?なぜ抗議に行かないの?」
テレビで、クーデター時代とセットで我々の記憶に残っている歌手たちが黒い服を着て「国民歌」を歌っている。ニュースチャンネルは、(ニュースが)大きなあおり立てにならないよう、民主市民党(DTP)の建物への攻撃のニュースを大きく扱わないようにしている。
家や人々のえり元だけではない、インターネットのフェイスブック(facebook)のような人気サイトにも、旗や黒のリボンが目に付く。奇妙なグループ名で知られている(この)サイトで、新しいグループの1つにこのような名前がつけられている:「プロフィールのアーティスティックな写真を外して、トルコの旗を掲げよう」。
実際に掲げられている... テロを呪ういくつかのグループで、メンバーの写真の代わりに旗の写真がはためいている。
完全に総動員体制の雰囲気である。向かう宛てを知らない怒りの雲が、誰に爆発するのか分からないまま漂っている。
「あなたは越境(軍事作戦)に反対しています。このことをアメリカの音頭取りをするために言っているのではないことは分かっています。でも...」で始まるある読者のメッセージは、心理をとても端的に表している。
「もう我慢の限界を超えました... 分別を失いました。我々は復讐が野蛮なものであることを知りつつも、無知無学であることを認めました。もしこの越境軍事作戦がだめで、この怒りが沈まらなければ、(トルコ人とクルド人は)もはや互いに非難し合い、罪のないクルド人同胞がその痛みを被ることになることをお分かりでないのですか?」

* * *

我々は分かっている。
そして本当はこのことを恐れている。
向かう先のあいまいなこの感情の爆発や、この盲目的な怒りがPKKやバルザーニやアメリカに届かなければ、最も近くにいる無実の人々や異なる民族アイデンティティを持つ隣人たち、同じベッドで眠る友人を標的としたり、互いに攻撃したり、あるいは状況をうまく利用した他の政治的計略が実行されることに一役買うことを恐れている。
PKKが手をこすり合わせながら見守るであろうこの取っ組み合いが、国をまず兄弟げんかへ、そして民主的権利が贅沢だとみなされる権威主義的な秩序に引きずり込むことを心配している。
殺人鬼に打撃を与えられない怒りが、我々の共生の文化や、決心や、意志に打撃を与えることを危惧している。

* * *

もっと心配なことは、トルコを互いに貶めることがこれほど簡単だということ...
社会の同じ場所でたまった蓄えや、何百年もの繋がりや、地理的、人間的関係がこれほど容易に見逃されるということ...
怒りの本来の理由や人殺しの真犯人が追求されないこと...
血が抜けるはずの血管がないために、社会的な繊維組織があざになったままになること...

* * *

誰もこうした痛みや、流される血から解決が導かれると思ってはならない。
「トルコ人-クルド人の取っ組み合い」で、トルコ全体が失うことになるものを忘れてはならない。
目的がPKKの野蛮な攻撃戦略に対して地域住民を勝利させることであることを見失ってはならない。
怒りで兄弟関係を壊してはならない!

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:12259 )