Turker Alkan コラム:ニワトリが先か?タマゴが先か?―反発デモとニュース報道
2007年10月31日付 Radikal 紙

言い古されたこんな問いがある。「ニワトリがタマゴから生まれたのか?タマゴがニワトリから生まれたのか?」
言い古された答えはこうだ。「いずれも真なり!」

このところ、PKK(クルド労働者党)に対して反発が高まっている。そうあってしかるべきでさえある。国家を分断しようと企てたことのみならず、トルコ人やクルド人を問わず、子供や女性までもを、すなわち人々を死に至らしめ、憐れな状況に至らしめたことについて、PKKは糾弾されてしかるべきである。
武器を持つことなく、血を流すことなく、争わずして解決されうる問題を、テロによって解決しようと企てていることについて、糾弾されてしかるべきである。
政治的営為が示した複数の選択肢を、常習的な人殺しで出来た単なる争いに転化させ、様々な平和的解決を不可能にしてしまったことについて、批判されてしかるべきである。
先頃、イラクのタラバーニー大統領が、PKKを批判する形で、「もはや、チェ・ゲバラたちの時代は過ぎ去ったのだ!」と述べた。チェの例が正鵠を射たものではないとしても、タラバーニーのこの発言は正しい。少なからざる理由で、これらのゲリラ戦がもはや有効ではないことを我々は目の当たりにしている。PKKは、人々を終わりのない冒険へと引きずり込んだことについても、厳しく批判されてしかるべきである。

何日間も、数十万の人々が、諸々の通りを「くそ食らえPKK!」、「殉教者が死ぬことはない、祖国が分かたれることはない」と言って行進している。「今日の青年たちは、明日の殉教者だ」とも口にされる。感情的な状況だ。皆が国旗を手にし、皆が涙をこぼす。
反発が大きくなるにつれ、「ああ、統制がきかなくなったら?」という問いが、人々の頭を悩まし始めた。
クルド系の国民に不快な思いをさせるような行為へと転じてしまえば、このような行動は利益以上の害をもたらす。
これは分かりきった話だ。しかし、怒りの感情に任せてしまえば、大衆が何をしたものかは定かではない。政府が「検閲」を持ち出して、想定されうる悪い結果を防ごうとすることもありうる。しかし、トルコが達成した民主主義的な試行錯誤の積み重ねは、こうした検閲を許容できないものだったし、実際に許容できなかったのである。このような状況で、問題はメディア、とりわけテレビにある。

そうして、ニワトリとタマゴの話と同様の状況が現れているのである。テレビ、そして概してメディアは、報道するのが職責である。もし社会でラジカルなナショナリズム的潮流が力を持っているのであれば、それについて報道するであろうし、そうでなければ、自らの職責をまっとうしたことにはならないだろう。
それとは逆の見方に立てば、テレビがこれらのニュースを極端な形で劇的に報じるがゆえに、反発デモを煽っており、その拡大を先導している。テロ関連のニュースは、視聴者をテレビ画面に引きつけるための一手段になっているのだ。
いずれの考え方が正しいのか?いずれにも真実が含まれているように私には思われる。テレビはこれらのニュースを報じるが、それは、[これらのニュースが]社会の流れを映し出しているからである。その一方で、極端にナショナリズム的な反発を含んだ映像が社会を緊迫させ、そうした反発を増大させる道を開いている。

トルコはそもそもナショナリズム的潮流の強い社会であり、トルコの教育制度はナショナリズムの原則に依拠している。インターナショナルであるべきマルクス主義者たちでさえ、しばしば厳格なナショナリズムに拘っていたのを、我々は目のあたりにしてきた。この国でナショナリズムをあまりに刺激しすぎると、予期せぬ、また、望まざる結果を招くことになるかもしれない。メディアが、とりわけテレビ各局が、より一層注意を払うことが有益だと私は申し上げるものである。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:12307 )