Ali Sirmen コラム:共和国の84年間
2007年10月30日付 Cumhuriyet 紙

昨日(10月29日)、我々は共和国の84周年を迎えた。2007年にトルコを支配する体制と1923年に(建国が)宣言された共和国は、その目的や性質の観点から互いを調和させることが不可能な大きな相違がある。
1923年10月29日の歴史的な国会で、トルコ大国民議会の議員であったユヌス・ナーディは、演説の中で、基本的に、自分達の行った仕事は体制の性質を発表することに他ならなかったと述べている。
そもそも祖国解放戦争の最中の、1920年4月23日に始まり、効力を発揮していた体制は、国民が自分達を導く者を自分達で選ぶ原則に依拠し、主権が国民であることを明らかにした体制、すなわち共和国であった。
1923年10月29日に宣言された体制の主要な目標は、独立国家が自らの宿命をコントロールしながら、時代をとらえ近代的な文明水準に到達することであった。
創成期の共和国は、近代的な文明水準(への到達)や経済発展、社会的な領域での大きな所得格差の是正 ―とは言っても当時は今ほどの所得のゆがみはなかったのだが―、貧困や、無知蒙昧さの克服を目標とした体制であった。
もちろん目標としたモデルは同時に民主主義を念頭においていた。目標とされた民主主義は時ととも進化を続けるはずだった。
共和国は、目標の多くを実現するには大きな欠落があったにもかかわらず存在した。

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とりわけ共和国の民主主義への志向という観点から、その基礎の部分に大きな欠落があった。
古典的なブルジョア・デモクラシーの背後にある推進力、すなわち生産的なブルジョアはトルコには存在していなかった。
共和国の建国者はこの欠落を、彼が奴隷から国民に変えようと努めていた人々を教育を通して、啓蒙の獲得物を身に付けさせながら取り除くことを目指していた。
大規模な教育の動員はこの目的に向けられていた。共和国の建国者の死後に組織され、まもなくその創設者によって削り落とされた農村教員養成所(Köy Enstitüleri)は、産業化の襲来に遅れを取っていたこの社会において啓蒙の獲得物を村々にまで広める目的を持っていた。
しかし、すでに建国者の理念から離れていた支配階層は、(創設者たちが)革命的な前進を弱めた影響もあって、啓蒙の前途をふさいだ。
(支配階層は)共和国の社会基盤における欠落を国民教育によって克服することを目指した人々を手の平の上で操り、国際情勢の影響とアメリカの援助により国民教育を自らの望む方向へと引き込んだ。
一党体制から多党体制への移行に成功した共和国が、真に多元的で、参加に基づき、幅広い声を集める民主主義に変わらなかったのは、まさにこのことが原因である。

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建国から84年が経過する一方で、共和国は、すでに啓蒙の獲得物を1つ1つ失い、その基礎を構成する世俗主義の原則の中身が有形無実となった国における、多元的ではなく多数決主義、すなわち投票の過半数を得た者たちが望むこと全てをすることができると思っている体制に転化している。
この結論に達することにおいて、共和国の建国者の党もまた他の共和国の諸機関同様、時とともに抵抗力と目的を失い、時代が求める水準や活力、力に及ばなかったことの影響もあった。
共和国は、自らを守り、発展させ、近代的な民主主義に変わるであろう(啓蒙の)獲得物に囲まれる代わりに、すでに民主主義を単に多数決主義に限定した、民主主義が必須の大前提であることから遠ざかっている状態にある。
換言すれば、2007年10月28日に、トルコは1923年10月28日にあった場所のはるか後方にいる。そして当時直面していたものよりももっと大きな脅威に対し身を挺している状態にある。
共和国の84年間で、自らが危機にさらされていると感じた社会が、デモの際にいまだに74年前の「10周年行進曲」(の音楽)に包まれていることも、無意識ではあってもこの状況を感じさせる1つの例である。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:12340 )