Ismet Berkan コラム:退役司令官たちが明かしたこと
2007年11月08日付 Radikal 紙

フィクレト・ビラは、ほぼ一週間にわたって『ミッリエト』紙上に掲載され、昨日単行本として発売された最新の彼の仕事のなかで、[PKKの]テロとの戦いにおいて高位にあった、つまり、軍司令官、あるいは参謀総長といった地位で職務に当たった一連の退役司令官たちにインタビューを行っている。

インタビューのほぼ全てに共通した点がある。司令官たちは、クルド問題について語る際に、トルコ共和国国民たるクルド人が、彼らの言葉[→クルド語]で会話し、彼らが自らの文化の中で生き、彼らの文化を生かす必要性について否定的な見解を持っていないのである。それどころか、当時クルド語禁止を実施したり、「クルド人などいない」と考えていたとされる司令官たちもが、ある意味では[自らの]罪を告白している。

「あのようなことを言わないでおければ良かったのだが」と彼らは語る。9月12日クーデターの指導者であるケナン・エヴレンは更に踏み込んでいる。「南東部で仕事をする公務員はクルド語も知る必要がある」と述べて、おそらくは公共サービスがクルド語で提供される可能性について語っているのだ。フィクレト・ビラが、インタヴューした元司令官たちに向かって、彼らがそのような見解をいつの頃から抱くようになったのかについて問いかけていればよかったのだが[そういった問いはなかった]。これらの司令官たちは、在任中も、クルド語やクルド文化の禁止や制限の撤廃に賛成していたのだろうか?もし賛成していたのだとすれば、国家方針を形づくった会議、例えば国家公安委員会においてその意志を表明したことはなかったのか?

おそらく彼らがその意を表明することはなかっただろう。だからこそ、でっち上げられた非公式のクルド語講座の開設問題や、同じくらいでっち上げなクルド語による出版問題を解決することは、トルコにとって、とても時間を要することであったし、軍民両派間に多大な緊張関係を生みだすこととなった。

はて、我が国ではどうして長年に渡ってクルド語が禁止になったのだろうか?我が国では国営ラジオもテレビも英語、フランス語、ドイツ語で放送を行い、相当数の外国映画がオリジナル版の言語のままで上映されるというのに、一体どうして、一部のトルコ共和国国民にとっての母語であるクルド語を含めた様々な言語によるラジオ―テレビ放送がこの間まで禁止されていたのか?

我が国には中国語、イタリア語を含めた少なからざる言語やその文化を研究する大学組織には学術的な組織があるというのに、一体どうして、自国民の一部が話す言葉と彼らの文化に関連した研究所や学部がひとつもないのか?(例えば、コーカサスの言語であるウビフ語の最後の話者はトルコで暮らしておられたが、お亡くなりになった。もし我々が、この言語を研究し、大学で録音し、それに学術的重要性を与えたとしても何か問題があっただろうか?)

クルド語を、ボスニア語を、そしてカバルド語を長年無視することで我々の言語や我々の文化は高められたのであったか?これらの言葉が密かに話され、母から息子や娘に伝えられていくことで、社会にとって一体どれだけの利益を我々は手にしたのか?

数百にのぼる、いやおそらくは数千にのぼるクルド人の村落や集落の、数百年来の、いやおそらくは数千年来の地名を我々は変えた。トルコ語化させたのだ。そこから我々は何を得たのか?

ここでは政治的な問題についてではなく、人道的-文化的な問題について論じています。分離主義的テロ組織であるPKKがクルド語とクルド文化について幾つかの要求を行っているにしても、そのことで問題の本質が変わるものではない。つまりひとつの言語とその文化について論じているのです。

PKKがもしも明日「全員が毎日2回歯磨きをするように求める」と言ったら、我々が禁止するのは歯ブラシと歯磨き粉なのだろうか?歯を磨く奴は分離主義者だ、と我々は考えるものなのだろうか?

ケナン・エヴレンが「公務員はクルド語を知る必要がある」と述べる一方で、ディヤルバクル市スル区の区長は、国民にクルド語でも[公共]サービスを提供したいと求めたために更迭され、目下公判中である。重要なのは公共サービスが提供されることではないのか?どの言語で提供されるかということに、一体どんな重要性があるのか?そういったサービスを受けるのも、また提供するのも、我々の国民ではないのか?

エゲ[エーゲ]地方を見てみられよ。ディディムでは自治体が同地に定住するイギリス系国民のために請求書などをトルコ語と英語[両方]で作成しはじめたのだが、これが悪いことをしているというのか?いまや我々の隣人であるイギリス人に対して行われていることが、千年来の我々の同胞であるクルド人に対しては、どうしてできないのだろう?

初等教育の最終2学年、あるいは高等学校の1年ないしは2年間[を対象とした]「クルド語およびクルド文学」の授業ができて、この授業についてもクルド語で行われた場合、どうなると言うのだ?トルコが分断されてしまうのか?

いまだ、こういった要求は恐る恐る抑えた声で口にされるような状況ではあるが、[仮に]明日の朝、来年から実施する予定であると告知したとしよう。PKKと彼らの政治会派はそのことで得をするだろうか?損をするだろうか?私が思うに、彼らへの支持は多少なりとも損なわれるはずだ。

私には本当に気がかりなのだが、退役司令官たちは、今日彼らが抱いている見解を高職にあった頃にも一切表明したことはなかったのだろうか?

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:12390 )