Ismet Berkan コラム:社会学者ミュベッジェル・ハヌムを偲ぶ
2007年11月11日付 Radikal 紙

彼女の仲間たちは「ベジョ」と呼んでいた。私たちは「タンク」と呼んでいた。教室に戦車のように入ってきたから、そして私たちの誰に対しても言いたい放題で、変なことをされたと思うや大声で罵ったからである。
今まで私が出会った先生方は私に多くのものを教えてくれ、そうしたものは今でも私の中に残っている。しかしミュベッジェル・クライの、トルコにおける現代社会学と社会人類学の第一人者としての地位は常に別のものであり、別格であり続けるだろう。

授業でヒュッリイェト紙の小さな広告ページを開き、「オーバーロックジュ(オーバーロックミシンが使える者)募集中」という広告を読んだものだ、私たちが彼女の説明したことの核心を十分に把握できないでいると思ったら、いつでも。
「オーバーロックジュとは何か」とすぐに質問したものだ。彼女が言わんとしたことは、今や世界は「熟練工」を必要としなくなり、昔ながらの「腕利きの職人」はいなくなるか、もしくは今や死に絶えたものとなってしまったということであった。古典的なブルーカラーとホワイトカラーの区別もはっきりしないものになっていた。(そうこうするうちに27年が過ぎ、この曖昧さはますます広がった。)
今ではすることも少なくなったが、昔自動車やバスでアナトリアをまわった時に、ミュベッジェル先生が問題を出して(質問)ゲームをしたものだった。この村はなぜここに作られたのか、この町はなぜここに作られたのか、この都市はなぜ活気がないのか、他の都市はなぜ人々をひきつけているのか?
疑いなく全てに理由があった。その村がそこにあったのは、そこに道が通っていたから。その町がそこにあったのは、そこに川が通っていたからであり、その町に活気がなかったのは、川を使った水上交易が衰退したから。この都市が人々ひきつけていたのは、そこに産業があり、人々に仕事と食べ物を約束したから。

私はどんな授業であれ、さぼってもかまわなかったが、ミュベッジェル先生の授業はさぼることはできなかった。先生の話すことをスポンジのように吸収していた。私の人生で初めて「学校」という環境の中で、最新の知識、学問にふれることができたのだ。
そのとき私は17歳だった。私は多くのことを知っていると、自信に満ちていた。そして実際はなにも知らないことをわかるためには、ミュベッジェル・クライの授業を受けることで十分だった。
私は人類の歴史におけるすべての革命とは、唯物史観が我々に説明してくれる革命だと考えていた。しかし本当に全ての人間の生活を根本から変えた革命は2つだけだった。すなわち人間が狩猟・採集の生活から定住の段階に移った約13000~15000年前の新石器時代の革命と、数世紀前実現した産業革命である…(数十年にわたって、私たちが3つめの革命を経験するかどうかということを話している。産業のあとは社会、情報経済革命…)
最近まで私が一番情熱をもっていた実証科学における「原因と結果」の関係が社会科学においても有効であること、加えてこれがマルクスとエンゲルスの説明したようなメカニックで、ほとんど自動的なものではなく、ダイナミックなプロセスであることを、先生のおかげで完璧に納得した。歴史は、ただ偉人や偉大な軍人たちが書いたものではなかった。時間の矢は物理的な出来事だけのために先(将来)を指し示しているのではなく、社会的な出来事のためにも同じ向きで動いていた。そして根本的な原因をもつ社会学的な出来事は本当に後戻りすることのないプロセスを生じさせていた。
ミュベッジェル先生も、我が国の政治的波乱のなかで様々なことを経験された。先生もあらゆる知識人同様、時折国家の抑圧に遭遇したが、いつもまっすぐに背筋を伸ばし、そして学問を続けた。

彼女の生徒となってからずいぶん経った頃、ある春の朝、ベベキの船乗り場の後ろにある小さなカフェで彼女と偶然出会い、何時間も話しあったことを覚えている。手に尊敬のキスをするような習慣は私にはないが、その朝は彼女の手にキスをしたいという気持ちが私の中に起こった。なぜならその日の会話は、ミュベッジェル先生がわたしの考え方や質問スタイルをどのように根本から変えてくれたかをはっきりとした形で示してくれたからである。多くの話題において、特に世俗主義を守ることについて、私たちはお互い理解しえなかったが、私に社会的な出来事を違った風に質問することを彼女が教えてくれており、そして彼女はこのことにも気づいていた。私は馬鹿なことをした、彼女の手にキスをせず、車のところまで歩くのに同行し、互いに別れを告げたのだ。

思うに最後に会ったのは1年ほど前、「ペラ会議」でであった。彼女は準備委員会のメンバーであり、私もその夜の講演者であった。私はじっくりと、CHPがなぜ力を失った政治組織になったのか、社会が、実は左派的社会民主主義視点の原則で守ってくれる民衆の視点に立った新たな政党をどのように、そしてなぜ期待しているのか、AKPの弱点がどこにあるのかを説明しようと試みた。彼女と彼女の昔からの仲間であるネジャト・エルダルは私に質問をし、私は返答に苦労したが、私は彼らが私を認めていないとは感じなかった

私たちの国トルコは、現代社会学の母なる女王を失い、昨日彼女の仲間たちは彼女を土に返した。彼女の好きな人々と生徒たち全てに神のご加護を

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:12419 )