滑走路が見えていた、あとは着陸成功の拍手だけだったのに
2007年12月01日付 Radikal 紙

イスタンブルからおよそ一時間半遅れて離陸した旅客機の乗客たちは、既に着陸までの分数を数え始めていた。セルハト・オズデミル機長は、ウスパルタへ初飛行をおこなったことが明らかにされているが、(飛行時に)コックピットで管制塔と話していた:「ウスパルタ管制塔、こちら着陸(態勢)となりました。」機長は「着陸」という用語で、「滑走路をとらえたこと」を述べていた。

時間は丁度1時36分だった。ウスパルタ管制塔はこの時以降、二度と同機と接触が持てなかった。アトラスジェット航空がワールドフォーカス航空から借用したMD83型の旅客機は、スレイマン・デミレル空港へ着陸するため降下体勢に入っていたとき、ケチボルル郡のチュクロレン村とクルチュ村の間に墜落した。空港までの距離12キロの地点で旅客機は1830メートルのトゥルベテペの頂上に衝突し、乳児1名を含む50人の乗客と7人の乗務員の内、生存者はいなかった。

(事故機の)KK4203旅客便は、イスタンブルのアタテュルク空港からウスパルタへ23時20分に離陸予定であったが、プリシュティナからのフライトが遅延したため、午前0時51分に離陸し、1時36分にスレイマン・デミレル空港へ着陸体勢に入ったときにレーダーから消えた。

これに対して全治安部隊が動員され、空軍のヘリコプターも出動した。機体の位置を衛星を介して伝えるELT(航空機用救命無線機)装置からのシグナルが得られないと、周辺の池に落ちた可能性があると考えられ、捜索はそこへも広げられた。

同機について、ウスパルタのほかアフヨンカラヒサルとアンタリヤでも捜索がなされたが、4時間半情報が得られなかった。アンカラから出動したAS532 Mk1クーガー型の特別耐熱性カメラを備える捜索救助ヘリコプターが、6時頃にその残骸を、空港の北西にあるチュクロレン村とクルチュ村の間に位置するトゥルベテペで発見した。

■ 「火災はない、死亡は衝突によるもの」

険しい山岳地帯に着いた捜索隊は、標高1830メートルのトゥルベテペの1700メートル地点で、胴体と尾翼の2つに分かれて横たわった機体に、乗客・乗務員中、生存者がいないことを確認した。一部乗客の、座席に繋がれたまま飛散した遺体と、機体のバラバラになった残骸が5000メートル四方の広い範囲に散らばっているのが確かめられた。

捜索では、機体の「ブラックボックス」と名付けられたCVR(コックピットボイスレコーダ)とFDR(フライトデータレコーダ)なども発見された。広範囲に散らばった乗客の遺体はDNA鑑定を行うため血液サンプルが採取された。スレイマン・デミレル大学学長のメティン・ルトフィ・バイダル教授博士は、「旅客機で亡くなった人の大多数は、衝突の影響で命を失ったようだ。火災はない」と話した。

■ 知事:墜落した場所は進路を外れている

ウスパルタ知事のシェムセッティン・ウズン氏は、旅客機の落ちた場所が進路を外れていたことを明らかにし、「旅客機があそこへどうやって下ったのか、理解しがたい。山稜の向こう側に落ちたらしい」と話した。機体が墜落した際、気象条件は平常であったと明らかにされた。管制塔が、操縦士に「接近を続けてください」と促した際に、同機との接触が断たれた。

アトラスジェット航空のCEOトゥンジャイ・ドアネル氏も、機長が滑走路を見ていたこと、事故が着陸の際に起こったことを明らかにした。墜落前に、機体から緊急事態のシグナルはこなかった。緊急事態のシグナルは、アンタリヤとアンカラにあるレーダーステーションだけでなく、ウスパルタのスレイマン・デミレル空港の管制塔やその空域で飛行している航空機からも得られうること、このシグナルにより、航空機の墜落場所がより短時間のうちに判明される可能性について言及された。

旅客機がレーダーから消えたとき、その空域を通過していた多くの航空機に情報提供が募られたにも関わらず、事故の情報は得られなかったことが強調された。機体の墜落後に爆発がなかった理由ついては、短い飛行距離であったため、機体に多くの燃料を積んでいなかったためとされた。

アトラスジェットは、遺体の搬送のため貨物機を一機、犠牲者の家族のためにも旅客機をあてがった。しかし、遺族は、「イスタンブルからトルコ航空(THY)の飛行機で来ました。これからTHYを使って帰ります」と話した。

(後略)

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( 翻訳者:林 奈緒子 )
( 記事ID:12573 )