Ismet Berkan コラム:世俗主義とは何だろうか?
2007年12月21日付 Radikal 紙

先日、世俗主義問題についてとても敏感になっていることを私がよく知っている若い女性で、トルコの最近の基本的な問題が宗教の位置付けであると信じ、そして彼女自身のライフスタイルが脅威にさらされていると感じている人と話をした際、彼女が世俗主義に起因する政治的分裂を、私よりもはるかによく概念化していることに気がついた。

彼女が述べていたのは、「彼ら、つまり公正発展党(AKP)の支持者たちによれば、世俗主義とは、国家が宗教に介入しないことを意味します。でも、私や私と同様の考えを持つ人々にとっての世俗主義とは、無信仰者もしくはあまり敬虔ではない人々が国家の保護下にあることを意味します」ということだった。

これと類似の概念化を、昨日(12/20)ラディカル紙でタルハン・エルデム氏のコーナーで読んだ。タルハン氏も、「この考え方(ファズル・サイを排除する考え方)の裏には、『信仰の求めるところを思う存分に実行できること』という世俗主義の定義がある。しかし、世俗主義は、信仰を持つ人々や篤信家らが礼拝を自由に行うことではなく、礼拝から遠ざかったか礼拝をやめた人々への干渉がなされない社会的秩序の呼称である」と述べている。

それぞれがよく似ているこの二つの概念化の形を認めるとしよう。というのも、自身を「世俗的」とする理知的な人々の根本的な懸念が、非常に的確な形で表現されているからである。
この懸念の根源には、私が「自国において自らを客人と感じること」と名づけようとしたシンドロームがある。
こう言うと、すぐさまイスラーム主義者たち、例えばフェフミ・コル氏(訳註:AKP寄りのイェニ・シャファク紙のコラムニスト)の次のような反対意見が聞こえて来る気がする。
「かなり長い間、昔は民主党(DP)、その後は公正党(AP)、祖国党(ANAP)、そして今回はAKPに投票した幅広い層の人々は、自国において自らを客人のように感じていた」

この見解に、私はある程度まで正当さを認めることができる。本当にこれらの政党は、大多数を得て政権に就いたのに、どの政党も「十分な権限を持てない」ことについて不平を鳴らし、ある「深層国家」が各々の政権を操っていると訴えた。解釈はこうであり、我々も「感情」について述べているので、私はこの見解はある程度正しいと認めている。

もしくは、実態は、何度かの短期間の中断をのぞいてトルコがこの57年間(訳註:1950年の複数政党化以来現在まで)ずっと、宗教的に敏感な人々や、さらには広範な大衆をもその庇護のもとに避難させた、これらの右派政党によって統治されたという方向性の中にあることは間違いない。この観点からAKPが、自ら主張したように(そして私も考えているように)DP-AP-ANAP路線を継承しているのであれば、この政治路線が率いる大衆が「我々は自分たちを自国において客人のように感じている」と考えていることの意味は他にあるはずである。

私には、この「客人と感じる状況」の根本的な原因は、宗教的な諸々の自由ではなく、経済的な分け前を得られなかった部分に隠れていると思われる。
しかし今日、自身を「世俗的」と定義する広範な大衆が自分たちを「客人」と感じることの根本には、ライフスタイルの不安がある。
つまり、両者を「客人と感じること」という形で概念化しても、根本的にはそれぞれかなり異なる状況なり不安があるということだ。

***
アマスヤにある、ある学校の寮にいた人々の90%が断食をしたこと、そして残りの10%の人々に断食をしていないとして圧力をかけたことは、ある人々には「認められないとしても、それにこだわる価値もない、通常のありふれた出来事」のように受けとめられ、またある人々には「非常に深刻な事態が起こるという兆候のひとつ」という印象を与えてもいる。

こうした理由からも「世俗主義とは、無信仰者や周りの人ほど敬虔ではない人々を守る体制の名称である」という解釈が出現している。ファズル・サイの「彼ら[イスラーム派]は70%、我々[世俗派]は30%」という発言が飛び出している。そして、あるAKP幹部の「去るのであれば、去りなさい」といった無礼な発言が露呈している。

4月に催され、非常に多くの人々が参加した共和国ミーティングを準備した人々が民主主義を逸脱する傾向や、クーデター期待の態度などはひとまず置くとして、このミーティングに参加した何十万もの実直な国民の不安とは、まさしくこの少数派になること、ライフスタイルを失うという不安だったのである。これを見て見ぬふりをすることや、単にミーティングを準備した人々や演説者たちを反民主主義者だとして、この真摯な懸念を過小評価することは間違いである。

***
コラムの冒頭で言及した若い女性と話した時、私は「さて、私たちはライフスタイルを、民主主義以外の手段で守っていくのでしょうか?」と訊ねた。この問いに私の近しい人たちを含め軽視できないほど多くの人々が、時には胸の内で、時には声高に「世俗主義を守るためには、民主主義を犠牲にする用意があります。少なくとも反対はしません」と答えたことを、私は非常によく知っている。ところが、私が言葉を交わした若い女性の答えは「間違いなく、いいえです」だった。
ならば、あとには唯一の道が残されている。それは政治を為すことである。
この終わりない、尽きることのない問題を明日も続けよう。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:12713 )