Sahin Alpay コラム:刑法301条は即刻廃止すべき
2007年01月23日付 Zaman 紙

フラント・ディンクは、私の敬愛する友であり、大いに敬意を表するジャーナリスト仲間であり、トルコの最も優れた知識人の1人であった。知っていることの正しさを躊躇せずに話す貴重な人物だった。

真の愛国者であり、そのために生涯をトルコ人-アルメニア人の友好関係の再構築に捧げていた。彼の死はこれからも残念に思われることだろう。彼の残した足跡に敬意を表するために必要なことは、死から得られうる教訓を冷静に、できる限り明確に明らかにすることである。

フラントが殺されたことは、何よりもまずトルコにおける表現の自由や民主主義、文明に対して下された恐ろしい反抗だ。民主主義は元来、人が自分が考えたことを口にすることができる体制という意味である。文明とは、異なる思想や信条、出自、言語、文化、生活形態が互いに尊重されながら存在できる状況以外の何ものでもない。社会は、その前に横たわる問題をさまざまな解決法の提案を議論してはじめて解決することができる。(したがって)表現の自由がなかったり、厳しく制限されている国々は取り残され、そのような体制が壊される運命にある。社会は、広く受容された見解を批判しながら、間違いを指摘する思想家の切り開いた道を通って前進する。歴史がこのことを物語っている。

トルコ社会はこの現実を理解することができず、異なる思想や異なる信仰、異なる文化や生活形態への敬意の念を根付かせることができなければ、目の前の問題を克服することも、文明的な国になる資格を得ることもできない。トルコは、この方向でかなり前進したが、進むべき多くの道程がまだ残っていることはフラントの死によって大っぴろげにされた現実により明らかである。なぜならフラントは、何よりもまず不寛容さの犠牲者であるからだ。

ここしばらく、フラント・ディンクや他の優れた思想家、作家たちは、広く受け入れられた思想や、国が適当と見なす公式の見解を批判的とらえる反対意見によって軽蔑され、悪意ある糾弾や信じられないほどの誹謗、中傷の的となっている。公の機関の高官たち、特にその中の一部は、(そうした)知識人への嫌悪感をあおるキャンペーンに対し沈黙を貫き、時には加担しながらこびへつらった。

政府は、表現の自由を締め付け、異なる思想の持ち主に対し行われるリンチ・キャンペーンを鼓舞するために、これほど長きにわたって議論の的となり、批判されてきた刑法301条について残念ながら何もしなかった。多くの知識人同様、フラント・ディンクもこの条項で裁判にかけられた。彼らの審理はトルコ司法史上初と言ってもよいほどの侮辱と攻撃のもとで進行した。アルメニア人の祖地離散の際に(アルメニア人)人種主義者はトルコ人に対する敵対行為をしなかったということを警告する彼らの言葉は、有識者の報告書にもかかわらず信用されず、「トルコ人であることを侮辱した」として解釈され、フラントは公正の感情を踏みにじるほどの不当な形で有罪とされた。フラントがある意味において301条の犠牲者であることは疑いない。

フラント・ディンク殺人事件から得なければならない教訓の筆頭に来るものは、トルコの指導者も政治上の責任を負っている全ての人間も、公式な見解に問いかけを行う人に対し行われる侮辱と軽蔑のキャンペーンをそのままにせず、これらにおもねず、キャンペーンを防ぐために努めることが必要であるということである。得られるべき第2の教訓は、刑法301条を即時廃止することである。これほどの侮辱と嫌悪のキャンペーンの標的となり、死の脅迫を受けた1人の優れた新聞記者であり作家を攻撃から保護するために、公安組織が何の対策もとっていなかったことは、当局の許される過ちではない。したがって導かれなければならない他の教訓は、この過ちを絶対繰り返さないことである。

フラントの殺害はトルコの信望と誇りに向けられた非常に大きな反抗だ。この殺人事件がトルコに与えた罪を償うことは全く容易なことではない。仮に301条を廃止すれば ― もしも不寛容さや人種主義、狂乱といったもの全てに対し国家や社会として対処することができれば、もしフラントの尊い足跡にふさわしい敬意を国民として示すことができれば ― もしかしたら我々の感じた深い心痛と恥の感情を少し和らげることができるかもしれない。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:4429 )