二人のナショナリスト -マクドナルド爆破犯とディンク暗殺犯、接点はサッカークラブ
2007年01月23日付 Radikal 紙

「マクドナルドを爆破したヤシン・ハヤルは、今度はゴールを突破する。」2年前、ヤシン・ハヤルの出所は(地元のサッカークラブである)ペリトリスポル・クラブにこのように歓迎された。フラント・ディンク氏殺害の容疑者オギュン・サマストも同じクラブに所属していた。

「爆破犯ヤシン」の夢は、「チェチェンに行くこと」、オギュンの夢は「アルメニア人」を打ちのめすことだった。ヤシン・ハヤルが、ディンク暗殺事件の前日2006年1月18日にペリトリスポル・クラブのインターネットサイトに「まもなく」と書き込みをした意図は何だったのだろうか?

■まず監督を黙らせる

ペリトリ地区は、黒海地域のあらゆる都市と同様に、上下2つに分かれていた。ハヤルは、1981年に下層地区のアドナン・カフベジ地区で生まれた。労働者である父バハッティンは、40年前にギュムシュハーネからここへ移住した。ヤシンは、4人兄弟の中で育った。ヤシンはお祈りを怠らず、沐浴せずに通りに出ることもなかった。ラマザンではドラムを叩いていた。

ヤシン・ハヤルという名前は、1998年アマチュアとして水道局(DSI)でサッカーをプレーしていた時初めてメディアに登場した。ヤシンは友人と共に監督のスィナン・アクチャイを病院送りにした。頬骨にひびが入ったアクチャイは話が出来なかった為、事件の理由は分からなかった。

■チェチェンに行こうとした

ヤシン・ハヤルは、1999年に高校を卒業すると大統一党の関連組織で後にアルペレン協会へと名前を変えるニザーム・アーレム協会に参加した。3月18日に地方新聞ギュネバクシュ紙に対して行った全面記事の談話で「若者達が宗教と密接な関係を持つムスリムとして育成されること」を望んでいた。

その後は兵役に行き、無職となり…一時は父親と兄オメルと共に建設作業に従事した。空き時間はいつでもインターネットを見て過ごしていた。チェチェンに入国する為アゼルバイジャンに行ったが失敗に終わった。「インターネットでチェチェンの友人と会うことがある。このおかげで多少の成果もあった。言葉、母国や宗教に対してはどこまでも敏感だ。」

■「3年服役したら出られる」

ヤシンは「どこまでも敏感であること」をアゼルバイジャンからの帰還で示した。「アメリカへの抗議として2004年にマクドナルド」に爆弾を投下した。子供5人を含む6人が負傷した。爆弾の作成は軍隊で学んだと話していた。

新聞記者らに対して「3年間服役すれば出られる。(出たら)ロシア領事館や、HSBC(香港上海銀行)を爆破する。伝説の人物を今のうちに撮っておけ」と話した。彼は3年間「服役」しなかった。11ヶ月拘束された後2005年9月に釈放決定が下った為釈放され、街の‘保守的な青年’‘身震いするほど恐ろしい者’‘爆破犯’という肩書きを増やして戻ってきた。

ペリトリスポルのアラアッティン・アイドゥン会長は、ヤシン・ハヤルを「悪の道から救い出す」為にクラブに迎え入れた。「私たちはこう言っていました。『この子を社会に迎え入れよう。私たちと同じ土地の人間なのだから』と。彼はトレーニングを妨げることも、問題を起こすこともありませんでした。シーズンの終わりにはチームから去って行きました。」

クラブの元キャプテンでペリトリ市広報部長のネディム・モッラレイスオールによれば、ヤシン・ハヤルは若者たちの間である種の重要人物になっていた。「刑務所で数多くの本を読んでいたようです。無職の若者たちに対して影響力がありました。そもそもそれ故にクラブは彼を受け入れていたのです。」

ヤシン・ハヤルは、ペリトリスポル・クラブのインターネットサイトも作っていた。サイトにニュースが掲載された。「マクドナルドに爆弾テロを仕掛けて世界中で義憤を巻き起こしたヤシン・ハヤルを送り出し、この輪を広げた。」

「爆破犯」は、ディンク暗殺の1日前にサイトの掲示板に投稿されたメッセージで、「まもなく!」と書いていた。

匿名の2人のサッカー選手によると、ヤシンはクラブで「兄貴分」と思われていた。監督でさえヤシンには一目置いていた。「非常にナショナリストで信心深かったのです。皆が彼を『爆破犯』と言っていました。オギュンはというと『とても喧嘩っぱやい』人間でした。ヤシンがクラブを離れるとオギュンも彼に付き従い始めました。」

元キャプテンのモッラレイスオールは、オギュンが、無職で権力もない15~20人と一緒に街を歩くヤシンの傍らにいたという。ヤシンの兄オメルもその中にいた。「ヤシンは、地域で愛されていた。若者たちが周りを囲んでいた。しかし私はオギュンを使ったとは思っていない。」

父バハッティン・ハヤルはオギュンを一度も見たことがないと言う。「息子は1日5回のお祈りを怠らず、沐浴をせずに通りに出ることもありませんでした。爆弾を投下した後に新聞から影響を受けていました。しかし息子はやっていません。家にはインターネットはなかったのです。驚きました、イスタンブルで犯罪が起きていて、ヤシンが疑われています。」

■「ヤシン兄さん」については口を噤む

アドナン・カフベジ地区でも、オギュン・サマストが住んでいたジュムフリイェト通りでも若者たちはどういうわけか「ヤシン兄さん」に対して悪口を言わない。犯行後2日間尋問された17歳のY.K.のように。「ヤシン兄さんは、喧嘩を仲裁し、新しく地域にやって来た者には『モスクへ行きませんか』と声をかけていました」と言う。Y.K.は、フラント・ディンクを知らないこと、そしてこの犯罪はトルコを後退させると話した。

しかし全ての人がY.K.と同じ意見ではない。ヤシン・ハヤルが開設したペリトリスポル・クラブのインターネットサイトで犯行を非難するメッセージと並んで「母国の水を飲み、パンを食べ、空気を吸っていた者は、母国を裏切ればいつか報いを受け後悔するだろう」と言う者もいる。もしくは「パシャのムスティ」を名乗る者のように犯罪に感謝する者さえいる。「サマストよ、よくやった。あの者に3発の銃弾はもったいないくらいだ。」

■サマストの母親、哀悼の意を表す

母親達は無言で、ショックを受けている。昨日DHA特派員と面会したオギュン・サマストの母親ハッヴァ・サマストは、「オギュンは怒りっぽい性格でした。フラント・ディンク氏のご家族には謹んでお悔やみ申し上げます」と言った後、失神した。

アヌット通りにある漆喰塗りで、練炭で組み立てられたヤシン・ハヤルの家は今でも人で溢れかえっている。父親バハッティン・ハヤルは、事件の話が始まると苦渋の表情を見せ、「事件の事は妻と一緒にテレビで見ました。足がすくみました。妻は『一体あの男の人から何を望んだのでしょう』と言って泣きました。私も目が涙で一杯になりました。ご家族の方々には、ご冥福をお祈りします。」

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( 翻訳者:新井仁美 )
( 記事ID:4432 )