Haluk Şahin コラム:トルコ映画復権―良質国産映画とスターの誕生―
2007年01月03日付 Radikal 紙

新年最初のコラムは、我々のいい面から(書き)始めることにしよう。2007年、私はトルコ映画界からのすばらしいニュースを心待ちにしている。昨年の最後の月に観た2本の映画によって、この分野での私の期待は揺ぎないものとなったが、(ここではその2本の映画である)『タクヴァ』(*)と『ベイネルミレル』(**)を取り上げる。

トルコ映画は大衆と再会している。

2006年、トルコ映画が入場者数でハリウッド映画を上回ったことは、文化的観点からすれば意義あることだ。おそらく、ドネルケバブがドイツでマクドナルドのハンバーガーよりも売上を伸ばすのと同じくらい重大なことである。

かのハリウッドは、アメリカ製のモーターを搭載したグローバル化における最強の機関車のひとつだ。かのハリウッドは、アメリカ人編集者が語ったように、「CIAが踏み込めない場所にまで」入り込めるのであった。

トルコ映画は大衆との間で過去を水に流しつつある。テレビが家庭にやってくるまで、「国産映画」は我々民衆にとって第一の家族の娯楽だった。その後、テレビが普及し、国産映画は見向きもされなくなった。映画人たちは、もっぱら、疎外され孤独を抱えた知識人の対話なき憂鬱を描く重苦しくて大袈裟な映画を作るようになった。ハリウッド映画を「オンタイムで」(期間をおかずに)上映できるようになった映画館は卑屈になり、国産映画を公開しないという事態にまで至っていた。

そうです、観客が居なかったのですとも!

いまや復讐のとき!

いい映画には、何よりもまず興味深い物語としっかりとした脚本が必要である。『タクヴァ』と『ベイネルミレル』を観る限り、トルコには語られるのを待っている物語がふんだんにある。トルコ人の観客は、バイオレンス嗜好を下敷きにして作られたアメリカ製の物語を見飽きていた。自分自身の物語を観たいのだ。

もちろん、それは、現代的な映画の語り口によって語られる限りにおいて、である。

新鋭の脚本家や監督は、多少なりともテレビ番組が確立してきた経験を通して、その手法を学んだ。

この(物語と脚本という)二つの要素が備わったところに、(はじめて)「スター」というクリームを乗せることができるでしょう。大衆と映画との最強の掛け橋は様々なスターたちだ。スターとは、スクリーンで目にした瞬間から、彼(女)のことを見ずには居られなくなる人のことである。

『ベイネルミレル』で私が初めて目にしたオズギュ・ナマルは、私の見るところ、トルコ映画界の新たなスター候補である。

(彼女が)表現の幅が極めて大きい役を演じているのを、感嘆しながら観た。あらゆるスターと同じように、彼女も役にとって必要な場合には、笑い、嘆き、踊り、空想にふけり、そしてすべてに説得力がある。

メリル・ストリープを思い出していただきたい!

(さらに)トルコ映画の復興には民主主義と寛容さの部分に注目しないといけない。

以前なら、『タクヴァ』と『ベイネルミレル』はそもそも検閲を通らなかったろう。

自由な文化は芸術的な創造性を陽光のごとく育む。もっとも困難な問題さえ描いて示すことができるのである。そこから利益を手にするのは社会全体である。それらの映画を見るとき、我々は自分たち自身を一層良く理解し、成熟させ、自由にするのである。

こういった理由で、トルコ映画は将来において世界の重要な映画作品の一角を占める資格があるだろう。


* Takva:A Man’s Fear of God(『ある男の神への畏れ』2006年/トルコ・独)オゼル・クズルタン監督。第31回トロント国際映画祭スワロフスキー文化革新賞受賞。

** Beynelmilel(『インターナショナル』2006年/トルコ)スッル・スュレイヤ・オンデル、ムハッレム・ギュルメズ監督。2006年12月29日より公開。


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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:4278 )