İsmet Berkan コラム:客員編集者オルハン・パムク-2007年1月7日紙面の裏側-
2007年01月08日付 Radikal 紙

晴れた9月のある日だった。イスタンブルを臨む丘の上にあるレストランで、文化芸術部編集者のジェム・エルジエスと共にオルハン・パムクをもてなした。我々の目的は、夏の数ヶ月に本紙社内で行った一連の会議で出てきたあるアイディアを彼に伝えることだった。

2006年の夏、創刊10周年に際して実施する活動について議論しようと、社内で一連の会議が行われた。その中で出てきたとても興味深いアイディアの最たるものは、客員編集者に紙面を委ねる日を何日か設ける、というものだった。絶えず物事の構造を気にかける性質の私の頭は、即座にこう問いかけていた。「とっても良いアイディアだが、誰に編集をやってもらえばいいのだろう?」ほとんど口を揃えて、初代の客員編集者の名が出たのだった。その名は、オルハン・パムク。

パムクは、その考えを我々が伝えると、こう言ってよければ、話に飛びついた。その時点で(パムクは)、ノーベル賞はまだ受賞しておらず、アメリカへ、コロンビア大学の客員教授として向かう準備を整えているところであった。我々は、計画を彼のトルコ帰国のスケジュールに応じて調整し、ついには日程を確定した。12月24日日曜日の紙面をオルハン・パムクが編集して発行する予定であった。

しかし、この会合から程なくして、パムクのノーベル賞受賞が発表された。すべての人と同じく、私も、それをとても喜び、また誇らしく思う一人だった。考えてもみてください。私の生まれてはじめての、そしてきっと最後の機会に、面と向かって知り合い、共に食事をし、雑談をし、エスプリを言いあった当人がノーベル賞を受賞したのです。正直に言えば、そのことの文学や、トルコ語や、トルコ人であることといった側面は置いておいて、個人的な側面だけでも、私自身がノーベル賞を受賞したかのように嬉しく思うに十分でした。

その日以降、私がパムクを初めて目にしたのは、ストックホルムでのノーベル賞授賞式の前のことだった。正直のところ、私は不安だった。我々の構想をまだやる意思があるのだろうか? と。しかし、パムクと直接会う前に『ミッリイェト』のワシントン支局長ヤセミン・チョンガルが私を内心ほっとさせた。彼は、パムクと長い対談を行ったのだが、その最後の雑談の折に、パムクは、『ラディカル』を一日限定で発行する予定で、そのことに非常に興奮している、と語ったのだった。

そもそも、当のパムクの会って最初の私への質問が「やるんですよね?」だった。ええ、確かに我々はやっていました。しかし、我々はその後日程を二週間延期した。というのも、12月24日の次の日曜日は元日であり犠牲祭の初日だったからだ。我々は、1月7日と日程を決めた。パムクも少々ほっとした。なぜなら、「まだ良いアイディアが見つかっていません」と語っていたからだ。

1月4日の晩、今回は別冊版の責任者であるトゥールル・エルユルマズと、再度ジェム・エルジエスを伴って我々はオルハン・パムクと会った。彼はいつでも辞められるように準備していた。というのも、とてもハラハラしていたからだ。我々は、その晩、彼を多少落ち着かせて、考えられうる新聞の作り方を説明し、彼も了解した。

土曜日の朝10時30分に、私はイスタンブルのジハンギルにあるパムクの「書斎」の前にいた。ジハンギルの住民は歓迎ムードで、アパートの路地側の門の向かいの壁には、ひときわ大きく「ありがとうオルハン・パムク」と書いてあった。

我々は車に乗り込んだ。そもそも私はひどく興奮していた。パムクが興奮しているのも、彼の顔の表情から読み取れた。彼を落ち着かせようと私はこう言った。「最悪の場合でも、今日(土曜日)の『ラディカル』くらい駄目な『ラディカル』はできますよ。ただ、新聞は生き物で、色々なものが雑多に同居しているのです。新聞を形作っている雑多さに、人ひとり、特別な考えがひとつ加わっただけでも、出来上がる新聞はより良いものになります。そういう訳ですから、気を楽にしてください。」

この言葉が彼をどれほど落ち着かせたのかは不明だが、新聞社に着いてニュース会議に入ると、パムクがハラハラしているのを、いやそうではなく、いかに人の意見を鵜呑みにしない人物であるかを、すぐさま理解した。議題されている中で最も重要性が低いニュースにさえ徹底的に質問し、次々に新たな視点や改善点を提案した。そのうえ、それを飽くことなくやっているのだった。

会議の後は実際にはまだ緊張していたが、どこかに心地よさのようなものもあった。私たちは昼食を取りに下の階へ下りた。本紙のオーナーであるアイドゥン・ドアンの座る机では、メフメト・アリ・ヤルチンダウ、リファト・アババイ、セダト・エルギン、ラウフ・タメルが共に食事中で、我々もそこに加わった。食事中には新聞に携わるもの特有のエスプリが飛び交い、アイドゥン・ベイをはじめとして全員が、パムクが新聞業界用語に精通していることを認めた。

昼食の後、一日の最も大切な会議のために、我々は再度、デスクを囲んだ。今度は、様々なニュースの中から一面の紙面構成を決定していくことになっていた。ここでも、(パムクは)ニュースの奥深くまで質問し、すべてのニュースを少しでも深く掘り下げようと努めた。そうして会議が済んで紙面構成に移り、昨日(7日)出た『ラディカル』の紙面が形になるところまで来ると、パムクも一息ついた。

この場での嬉しい驚きは、オルハン・パムクの(小説)『黒い本』の主人公のひとりであるコラムニスト、ジェラール・サーリキが死の二年前、1980年に『ノテル』に投稿したコラム、つまり今だかつて誰にも知られていなかったコラムが、パムクの手によって紙面化されたことであった。ちょうど私が自分の編集の椅子をパムクに委ねたように、私のコラム欄もすぐさまジェラール・サーリキに譲ったのは言うまでもない。

夜、退社するときには20時を過ぎていた。退社の前についに私ははっきりと口に出し、パムクの勇気を讃えた。彼のほうも、『ラディカル』発行に携わるめいめいの勇気を讃えた。私には、彼はお世辞を言っているのだと思われた。讃えられるべきは我々ではなく、パムクのほうだった。彼は、その名声、知性、丸一日という時間、そして文学者としてのアイデンティティをさらけ出して、危険を冒したのだ。

筋金入りのパムクの敵対者たちががこの新聞について何かを言うことになるかも知れなかった。(実際には)パムクは彼らを気にも留めなかったのだけれど。

彼を見送る際に再度感謝の意を伝えた。そして私は自宅への帰路についたのだが、一方では私の両膝は震えていて、心配していた。日曜の朝、新聞を手にした人々は何を思い、どう言うだろうか?と。

(日曜の)朝早くから車に乗って新聞スタンドを次々に巡った。素晴らしいことに、多くの新聞スタンドで『ラディカル』は売り切れていたり、売り切れ寸前だった。読者はオルハン・パムクにふさわしい関心を示していた。

ゆえに、まず、オルハン・パムクに、続けて、昨日の『ラディカル』完売に貢献していただいた読者の皆さんに、お礼を申し上げねばなりません。

来週は、『ラディカル』を、皆さんにとても人気のある別の客員編集者が発行することになっています。私が思うところ、日曜日の新聞をいまからお取り置きされたし。なぜなら、来週は、客員編集者をセゼン・アクスが務める予定なのですから。


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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:4310 )