Can Dundar コラム:暗殺34時間後の電話―フラント・ディンク襲撃から1年―
2008年01月19日付 Milliyet 紙

2007年1月20日土曜日・・・・。フラントが前日に暗殺されて、私の心の痛みはまだ生々しかった・・・・。
23:30にエルドアン首相はクズルジャハマムで「暗殺の容疑者がサムスンで逮捕された」と発表した。
暗殺犯は22:30にトラブゾン行きバスの車内で逮捕された。暗殺事件は解決に向かうのだろうか?
日付が変わると、私は首相に極めて近い某氏に電話をかけ、「何が起こっているのか?」を尋ねた。
記事にしないとの条件で次のようなことを彼は語ったのだった。
「暗殺の一方が届いたとき、首相は閣議中でしたが、閣議を中断して飛び出したのでした。フラントの絶筆となった論説が持ち込まれ、首相はペンを手に幾つかの行にアンダーラインを引いたのです。内相と法相には『暗殺犯を発見するまでは顔を出さないように』と指示しました。」
「どうぞ、続けてください」と私は応じた。
電話の声の主はとても興味深いことを言った。
「我々はリアルな政治を行わなくてはならない。[当時の正道党(DYP)党首のメフメト・]アアルは、『平原で政治』と口を滑らせて、3.5ポイントの得票を失った。この国はそういう国なのです。」
つまりは?
ナショナリズムの波に逆らうと、政治的な代償を払うことになる、ということだ。

***

■なぜトラブゾンまで待たなかったか?

逮捕された実行犯について訊いた。
「16歳・・・。ニザーミィ・アーレムを除名されたとのこと。マクドナルドを爆破したのも、TAYAD[服役者家族互助協会]を襲撃したのも彼ら・・・。6-7人からなるマフィアです・・・・」
と彼は言い、こう付け加えた。
「重要なのは、彼らを誰が実行させたかでしょう?」
いったい誰に嫌疑がかかっているのだろう?
「指令役は内部にいますよ・・・」と電話の声は口にした・・・・
そして、極めて重要な詳細について注意を喚起した。
「そもそも実行犯はトラブゾンへ向かっていたといいます。警察も彼を尾行したそうです。もし警察がトラブゾンまで尾行していれば、そこで誰と接触するかを確認したうえで、一網打尽にできたはずです。けれど、警察はバスをサムスンのバスターミナルへ入れさせて、そこでたったひとりを逮捕したとのこと。マフィアのネットワークに到達する機会はこうして失われてしまいました。」

■軍警察には武器さえ分かっていた?

襲撃から34時間後に行ったインタヴューの中にあった疑念は、ディンク事件の捜査についてまわった。事件後1年の間に、どれだけの石を取り払ってみても、その下からは防御用の盾が、顔を現さないマフィアたちが、そして隠蔽するための手練手管が出てきた。
警察の報道官たちは暗殺についての情報に言及せず、暗殺前の防犯カメラの映像は公開されず、容疑者に関連する電話は見つからず、実行犯と軍警察[ジャンダルマ]諜報局の間で交わされた電話会談の内容が明るみになることはない・・・。
リストは持ち去られてしまった。とはいえ、以前『タラフ』紙に掲載された記事は、重要な手がかりのひとつだ。
これは、ある「重大ニュース・告知フォーム」だ・・・。
執筆者はトラブゾン県軍警察司令官・・・。
2007年1月20日21時30分に執筆された・・・。
つまり、暗殺の翌日、襲撃犯が逮捕される1時間前のことだ・・・。
次のようなことが書かれている。
「ディンク襲撃は、マクドナルドに爆弾を仕掛けたヤスィン・ハヤルによって組織された。4人組だった。彼らはイスタンブルへ行って成功した。O.S.が殺害した。アルデシェン製の自作の武器が使用された。」
気をつけろ!
まだ[この時点では]O.S.さえ逮捕されていなかった。
そして、武器がアルディシェン製の自作のものだということは、[翌々日の]1月22日の犯行調書で明らかになる、はずだ。
軍警察は、暗殺事件の組織犯も、実行犯も、武器も分かっていた。
分かっているなら、どうして阻止しないのだろう?
いまだ、薄汚れた臭いが漂ってくる。
暗殺犯は警察署で英雄のように写真に納まり、彼らのポスターが刷られ、歌が作られている。幾つもの資料は闇の中だ。フラントの家族はいまだ脅迫を受けている。

***

今日、フラントの友人たちは、暗殺から1年が経ったのを機会に、彼が襲撃された15:00に、彼が襲撃されたその場所に集まって、正義を求める予定だ。ただディンク事件のためにだけではなく、トルコの将来のためにも。
すなわち正義とは、あの真夜中の電話でのあの質問の回答が見つかるまでのこと。
「彼らに誰がこんなことをやらせたのか?」

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:12932 )