Turker Alkan コラム:結び目のはなし―スカーフとゴルディウス
2008年01月31日付 Radikal 紙

聞くところによると、オスマン軍がイスタンブルの城壁を乗り越えて街を手に入れようとしているまさにその時に、ビザンツの聖職者たちは天使たちの性別について議論していたそうである。しめしめどうやら、我々はビザンツ人ほどひどい状況にあるわけではないらしい。とはいえ、それでもやっぱり私たちが議論すべき問題というのはある。そして、我々は何日も何日も「イスラーム風スカーフの結び目」について議論している!

イスラーム風スカーフを下あごの辺りで結べば、それは「スカーフ」となり、問題は解決されたことになるはずだ!よくぞ考えたものではありませんか!しかし、そのためには、我々はまずイスラーム風スカーフを三角形の状態にしなくてはならないだろう。

しかし、どのように結ぶのか、ということについては幾つかのためらいがある。結び目がゆるいと、女子学生たちの首筋が露わになってしまうかもしれない。また、あまりにきついと、ゴルディウスの結び目になってしまうかもしれない。

ジェミル・チチェキ副首相は魅力的な対処の方法を見つけたらしい。いわく:「アナトリア式の結び方にされますように。我々の古の姉妹たちはこのように結んでいたといいます。ということで、さあ、そのように結ばれますよう!」

そうですとも。アナトリアの女性たちは頭を覆っていた。[但し]今日の登場して日の浅いイスラーム風スカーフのようなものを用いて覆ったのではなく、イェメニ、トゥルベント、エシャルプ・・・といったかぶりものを用いていたのである。今でもそれらを用いている人々はかなりの多数にのぼる。しかし、イスラーム風スカーフとスカーフの唯一の違いは、結び目やピンの位置がどうのこうのではないはすだ!本来の重要な違いは、イスラーム風スカーフが女性の顔を、髪の毛一本さえ外目に見えないような形で覆うというところにこそある!

状況がどうあれ、私が本当に言いたかったのは別のことだ。すなわち、何かにつけてアナトリアに範例を求めるという態度が幾つかの問題を引き起こしかねない、と私は考えるのである。私は自分の少年時代の町でのある光景についてこんなふうに覚えている。たとえ頭を覆っていても、女性が道で見知らぬ男性に遭遇した場合、顔があらわにならないように、道の脇へと退き、男性に背を向けて、しゃがみこんで衣服で顔を覆うのだった。足元にはバギーパンツのような丈の長いパンツを履いていたので、肌が露わになるはずもなかった。ただし、そうはいっても奇妙な光景だった。

何日か前にムスリマ用衣料品店の店主がテレビで語っているのを観た。「若い女性たちはどうしてイスラーム風スカーフを被るのでしょうか?」との問いに、間髪をいれず、こう答えていた。「イスラーム風スカーフはモダンな装いなのです、だからです!」

イスラーム風スカーフを身につける若い女性たちは、アナトリアのおばあちゃんたちのようにはなりたくないのだ。イスラーム風スカーフを身につけることで保証されるふたつの利益はそれだけに留まるものではない。彼女たちは一度にふたつの満足感を覚えている。すなわち、一方では既成の秩序に挑戦し、「ノー!」と口に出す喜びを味わっているし、他方では、伝統や祖先に沿った既成の秩序の一部であることが彼女たちにもたらす「自分たちこそ正当なのだ」という感情や喜びを実感しているのだ!

彼女たちは、勇者やヒロインがもつ、そして理想に向かって挑みかかる行為がもつ聖性を備えつつ、同時に宗教と伝統のゆたかで価値ある後押しをその身に感じてもいる。

それはあたかもふたつの世界のいいとこ取りをしているかのよう!

革新派にせよ保守派にせよ、古いものにとらわれたり、現代性を主張して譲らなかったりするために、偉大な国家にとって何年もこの問題が難問のままで、現に今も彼らの関心をひいているのだ!

このような結び目はアナトリアのおばあちゃんたちにはなかったはずなのですがね・・・。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:13028 )