Haluk Sahin コラム:ブラボーなジャーナリストたちへ―ブランド時計と職業倫理
2008年02月09日付 Radikal 紙

アブドゥッラー・ギュル大統領がカタールを訪問した際に起こったある出来事は、トルコのジャーナリズムが、その当初はまるで馴染みのなかった倫理という概念を、その内部に消化し始めたことを示している。この一件は、その他の組織や今回の場合は政治的な組織にとっても範例となるような事の成り行きである。

おそらく各紙でご覧のことと思われるが、カタールの首長は、ギュルに同行した29名からなる記者団に対して様々な品々を贈与したという。それらの筆頭にくるのは、3、4千ドル相当のブランドものの時計だそうだ。訪問に参加し、昨日の『ミッリエト』紙紙面で事情について説明していたセルピル・ユルマズによれば、この時計には訪問の記念に送られたことを示すような文言は一言も[刻まれてい]ないらしい。すなわち、精神的な価値ではなく、単に時計のモノとしての価値がここでは問題なのだ。

ジャーナリストの多くは、倫理的な憂慮のために、時計の返却を決定したという。何人かはトルコの複数の慈善組織へ寄付するつもりであることを明らかにしたそうだ。『ヴァキト』紙特派員のセルダル・アルシェヴェンはというと、「アラブを敵視しているのではありませんか?他国では贈り物を貰ったからといって、返すものではありません」と述べたそうだ。アラブ諸国以外のどこも、この種の高価な品は贈らないものだということをご存じないからなのだろう。

本当のところ、私には狭量な部分が無数にあるのだけれど、それでも、高価な贈り物をその場で返却したり、返却したいと望むような若い同僚たちを誇らしく思った。なぜなら、彼らは正しいことをしたのだから。アメリカをはじめとしたあらゆる国のジャーナリズムに携わる職業人にとっての様々な原則の中には、ジャーナリストがこの種の高価な贈り物を受け取らないことについてのはっきりと示された規定がある。

あたかも蒸留器から一滴づつ手に入れた純粋な水の粒にも似た、ジャーナリストという職業にとっての基本的で普遍的な原則のひとつが、まさにこれだ。

ジャーナリズムとは、様々な規定がこの種の普遍的な原則によって明確化された職業である。高価な贈り物を受け取ることと引き換えに、ジャーナリストが読者に提供した情報に、ジャーナリストの個人的利害の影が挿してしまうことや、誤解を招くような性格が備わってしまうことは、恐ろしいことだ。別の言い方をすれば、読者は[そういったジャーナリストの記事に]納得させられることに、あるいは、説き伏せられたように思い込むことに、とまどいを覚えるものなのだ。

だからこそ規定は明確なのである。すなわち、精神的な価値をもつ書籍やノート、そしてペンのような品以外は受け取らないように!

もちろん、贈られた品を返却することは文化的な観点からすればデリケートな問題である。私の知る限りでは、カタールではこの問題についても物議をかもしているそうである。私は、贈り物はたとえ種々のデリケートな規定内に収まっていたとしても、受け取らないものだろうと信じている。

『ニューヨーク・タイムズ』紙には、こういった類の返却のためだけにあらかじめ用意された定型の文面がある。

おおよそ次のようなものだ:
親愛なる ○○様
頂いた品物は、私にとりまして、非常に嬉しく、また驚きでした。お心遣いに感謝いたします。
しかしながら、頂いた品物は私に困難な状況をもたらしました。『ニューヨーク・タイムズ』紙は記者および編集者と、取材対象とする個人や団体とのあいだでの品々の贈与を禁止しております。弊紙は、この種の品物によって、議論すべき問題について中立性を欠いているとの印象を生むことを望んでおりません。
ゆえに、感謝の意を込めつつ、ご返却させていただきます。事情をご理解いただきますよう、何卒よろしくお願いいたします。
敬意をこめて

我々のジャーナリストの友人たちがカタールで示した倫理的配慮は慶賀すべきことであり、その他のグループ、この場合は政治家の方々に対して「さあ、貴方がたの番ですよ」と私は申し上げるものである。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:13094 )