Besir Ayvazoglu コラム:難局にある文化・文学雑誌
2008年02月14日付 Zaman 紙

YAYSATはトルコにおける新聞・雑誌流通の市場を握る二大企業のうちのひとつである。各雑誌は、様々な規定がもう一社と比べればより利用しやすいため、同社をひいきにしているのである。

しかし、つい先頃新たな―そして非常に重大な―諸規定を持ち出したYAYSATは、現在流通している各誌に対して、2,000部につき2,000新トルコリラ[≒179,816円:訳者]を、また出荷数の50パーセントを上回る返本については1部あたり40新クルシュ[≒36円:訳者]を支払うよう[唐突に]求めたのであった。この諸規定は、多くの雑誌にとっての死亡宣告以外のなにものでもない。たとえ購読部数が極僅かで、限られた可能性しか持たなくとも、それらを通じて文化や芸術や思想という世界の活力や自主性や多様性をまもりぬくべく悪戦苦闘する各誌のオーナーや発行人たちは、いまや暗鬱とした物思いに沈み、代替となる流通手段を模索するべく会議に会議を重ねている。2月11日にはビルギ大学で新たな会議が開催される予定であると耳にしていたのだが、同会議でどのような決定が下されたのか、私は存じ上げない。

複数の大新聞やテレビ局やラジオ局、そして何十誌という雑誌を抱えこむグループひとつによる流通における独占状態。また、このところの同グループによるこの独占状態の多少の強化。それらが意味するものは、同グループが、自分たちとは異なる思想やアプローチ、多様さや多彩さを認めたくないということなのだろうか?私の見解はというと、ある国のほんものの思想や文化や芸術的営みといったものは、自主性を維持することができる複数の雑誌においてこそ築き上げられるものだ。新しく、そして何かを産み出すような思想や反論、怒りや喜び、そして試行錯誤は、見栄えが良く、綺麗な写真で飾り立てられ現代的なテクノロジーを駆使した印刷所で印刷された中身のない雑誌においてではなく、苦労して苦労してやっと出される雑誌においてこそ議論されるものだ。ある国の活力の度合いを理解したいのなら、幾つかの雑誌を見てみるのがいい。故ジェミル・メリチは訳もなしに「雑誌とは、自由な思想の砦」と言ったのではないのだ(故人がその言葉を題名に冠した有名な論説の一部は脚註でご一読のほどを:原註)。

雑誌の発行が、語られるはずの何らかの言葉の存在を意味するのだということは、忘れるべきではない。未来を形づくる文筆家や詩人、思想家や知識人は、まず雑誌において頭角をあらわすものだ。重要な文筆家は、決まって、雑誌という手段を採るものでしょう。雑誌というのは、そのどれもが、学校でもあり、文化的サロンでもあり、コミュニティでもあり、態度でもある。何かに考えをめぐらす人間や、何かを産み出す人間だけではなく、読者をも育むのである。『セルヴェティ・フュヌーン』から今日まで辿って来てみてください。:『イジュティハード』、『チュルク・ユルドゥ』、『スラト・ミュスタキム(セビリュルレシャド)』、『デルギャーフ』、『ハヤート』、『キュルテュル・ハフタス』『カドゥロ』、『ヴァルルク』『ビュユク・ドウ』、『ヒサール』、『ディリニシュ』、『パピルス』、『チュルク・エデビヤトゥ』・・・いずれもが、ある思想や芸術、そして文学の解釈の代弁役を担った雑誌であり、今日までその命脈を保っている幾つかの主要な思想潮流に命を吹き込んだ雑誌であり、何百という詩人、文筆家、そして思想家を育んだのである。

雑誌のこのような使命について、文化観光省でさえ十分には理解していないように私には思われる。先頃私は、エルトゥールル・ギュナイ大臣に(慌しい会見の席で)[雑誌の]流通にまつわる最近の状況について申し上げたのだが、彼はあまり興味を惹かれたようには見受けられなかった。発売された全ての雑誌を買いたがる人はいるはずもないが、しかし、文化省は、綿密に設定された諸基準を維持しつつ、各図書館に定期購読させることによって―しかし各図書館の自主性を損なわずに―「一人前」だと社会に広く認められた雑誌の命脈を保つことが可能であろう。1933年以来刊行されている『ヴァルルク』や、1971年以来刊行されている『チュルク・エデビヤトゥ』や、1992年以来刊行されている『デルギャーフ』やそのほかの雑誌が廃刊になってしまうと、結果的に、我々の文化的営みは貧しいものになってしまわないだろうか?これらの雑誌は、自由市場経済の弱肉強食の環境に支援もなしに放っておかれたら、YAYSATの新しい諸規定のなかで生きながらえられるのだろうか?いや、「可愛げのかけらもない雑誌などやめてしまいなさい、このグローバルな時代に何と遅れていることか!芸術だとか、文学だとか、思想だとか、そんなものが何だっていうんですか?」と仰るのなら、幕を引きましょうとも、そっとしておいてください。

だとしても、ヨーロッパにおいては、各雑誌が様々なファンドによって現実に支援を受けている。雑誌『ヴァルルク』最新号に掲載された「トルコ、およびEUにおける文化雑誌の諸状況」と題された論説では、Eurozine{ヨーロッパ文化雑誌ネットワーク}グループに所属する複数の雑誌が民間のファンドによってどのように支援されていているのかについて、一方、トルコにおける文化雑誌がどのような条件で生存競争にさらされているのかについて、長々と説明されている。トルコの状況は胸も張り裂けんばかりだ!

来月以降、新聞スタンドに幾つかの雑誌の姿が見あたらないことに、いったいどれだけの人が気付くのか私にはわからない。けれど、これらの雑誌の僅かな読者はひどく悲しむはずだ。ひとつだけやれるはずのことがある。すなわち、定期購読だ!ええ、各誌が、定期購読制度に移行することによってのみ、その命脈を保つことができるかもしれない。

何か他の妙案が思い浮かびますか?

[脚註]ジェミル・メリチの雑誌観
「若々しい思想は、雑誌において羽ばたく。タブーを認めない好奇心。認めない、いや、正しくは、認めることを望まないのだ。たとえひどく眉をひそめるようなものであったとしても、人を笑顔にさせるような「自信」があって、世界が彼自身によって始まったのだと訳もなく想像させるような純心がある。未熟者たちにおきまりの自尊心。

都会の裏路地のように近しげで心が通ったもの。時代の素顔はそれらにこそ見出せるでしょう。ミュージアムというよりは骨董屋、がらくたと無秩序。

本とは、未来宛の手紙・・・タキシードをまとった熱情、ミイラのように保存された思想。本と新聞は、一方は時間とは無縁のもの、もう一方は「いま」そのもの。本は、あなたと共に生き、あなたと共に育つもの。新聞は、読んでしまえばそれっきり。

本はあまりに真面目すぎるし、新聞はあまりに無責任だ。雑誌は、自由な思想の砦。きっとぐらつきやすいけれど、それでも、真新しくて熱を帯びた思想だ。本は、多くの場合はその人ひとりの作品、思想ひとつのこだま。けれど、雑誌は、いくつもの知の集まり。雑誌とは、ひとつの世代の遺言なのだ。遺言、いや正しくは、伝言。雑誌の廃刊とは、いすれもが、負けいくさ、潰走、あるいは自滅である。」(『この国』[イレティシム出版社(イスタンブル) 1992年 100-101頁])

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:13147 )