Ismet Berkan コラム:エルゲネコン8年史 (2)
2008年04月05日付 Radikal 紙

すでにお話しているように、イスタンブル共和国検察局が行っているエルゲネコン捜査は我が国の多党制民主主義史上最も重要な犯罪捜査となり得る1つ候補である。
この重要な捜査をよりよく理解するために、私は昨日から「(エルゲネコンの)最近の歴史」を書き始め、2001年と2002年に起こった2つの「クーデター」を説明した。2番目のクーデターは、2002年8月30日、参謀総長に就任したヒルミ・オズキョクを無力化させる目的で行われ、ヒュセイン・クヴルクオール元参謀総長が任官の慣例を破ることによって、陸軍総司令官に(元ジャンダルマ総司令官の)アイタチ・ヤルマンが、ジャンダルマ総司令官にはシェネル・エルイグルが就任した。
そしてこの任官から程なくして、2002年11月に公正発展党が選挙に勝利して単独与党となった。わずか5年前にトルコを軍事クーデターの淵に追いやり、「ポストモダン」クーデターによって下野させられた政治的イスラームの潮流は、その間に2つの政党が解党させられたにもかかわらず、単独で政権を獲得した。
選挙当日の夜にはすでに世間の目は軍を向いていた。軍はこの事態に対して何と言うつもりなのかと?
オズキョク参謀総長は、「選挙結果を尊重しなければならない」という言葉で態度を明らかにした。この会見とともに、軍の下層部と退役軍人の間では不満が沸騰し始めた。ジュムフリイェト紙の有名な「若手将校たちは焦燥している」という見出しはこのような状況で打たれ、(元ヒュッリイェト紙の)エミン・チョラサンのようなコラムニストによる、参謀総長を「弱腰だ」と批判する文章はこの状況で出された。
参謀総長は、単にこの「若手将校たちは焦燥している」という見出しのためだけに記者会見を開かざるを得ず、「私は民主的な人間だ。このことは罪なのか?」と訴えた!
一方で年は2003年となり、アメリカはイラクの占領のためにトルコに支援を求め、政府もアメリカへの支援を約束した。この目的で準備された(アメリカにトルコ国内の基地使用を許可する)決議が国会で票決される前日、アイタチ・ヤルマン陸軍総司令官は、ミッリエト紙のフィクレト・ビラに匿名で声明を伝え、決議を疑問視していると述べた。3月3日の決議の否決において、この声明の影響があったかどうかは当時も今も議論の渦中にある。
これだけではない。当時の国連のコフィ・アナン事務総長は、自身の名前の冠されたキプロス問題解決プランを発表し、(ギリシャ系、トルコ系の)キプロスの両サイドはこのプランについて話し合うためオランダのハーグへ招待された。
北キプロス・トルコ共和国(KKTC)のラウフ・デンクタシュ大統領は、アンカラでアブドゥッラー・ギュル首相から「絶対にプランを完全拒否しないように」との命を受けていたにもかかわらず、ハーグに降り立つやいなや「私はここへアナンに『ノー』の返事をしに来た」と言い、話し合いをぶち壊した。デンクタシュはこう口にする一方で、単独では行動しておらず、アンカラには彼が信頼を寄せる人々の一団がおり、アナンプランを拒否するようけしかける人々がいた。トルコの(選挙で)選ばれた政府は、自分の政策を実行できず、(デンクタシュに)実行させることができなかった。アンカラではある者たちが介入し、政府の明確な指示の実行を阻止した。
第3のクーデターはこれだった!
このクーデターは、ギリシャ系キプロス側が島全体を代表する(形で)EU加盟国となる道を開いた。クーデターを計画し実行した者たちにとって、ギリシャ系キプロスのEU加盟は「損失」ではなく「利得」だった。このようにしてキプロス問題は解決の道を絶たれ、トルコのEU完全加盟はといえばほとんど不可能な状態にされた。だってそうでしょう、ギリシャ系キプロスにとって島の残りの部分を合意を取り付けてではなくトルコ人を屈服させながら奪還し、トルコ系住民を少数派の状態に追いやるという目標の点から大きな武器を手に入れることになるはずであり、トルコに譲歩を迫るためにEU全体の中で拒否権のカードを行使するはずだったのだから。トルコもキプロスでは「譲歩」できないため、EU加盟を諦めるはずだった。
アンカラでは政府が自分自身の悩みに没頭し、そのリーダーであるレジェプ・タイイプ・エルドアンを首相にすることばかりに執心したために、初めはどのようなクーデターにさらされ、自分たちの将来にどのような負債を抱えたのか理解できなかった。
(AKP政権は)単に自分たちだけでなく、EU加盟の目標を支持した全てのトルコ国民がクーデターの危機にさらされたことを理解したとき、のちにもそうするように「弱腰の」態度を取った。司法調査の開始を政治的な意味においてさえ求めなかったのみならず、ラウフ・デンクタシュへこの(=アナンプランを拒否するよう)命令を出して政府の意に反する形で行動させたことにおいて、デンクタシュの後ろ盾となっている者が誰かを明るみにしようとさえしなかった。
奇妙なことに、第4のクーデターはやはりキプロス問題について起こる、あるいは起こそうと画策されるところだった。特にこれは、歴史的に見て最も深刻なクーデターの企てとなるはずだった。しかしこのごろの定見なく吠え散らす政府はやはり何もせず、民主主義の闘いなんかには着手さえしないほどだった。お許し頂ければ続きを明日書こう。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:13523 )