Ismet Berkan コラム:エルゲネコン8年史 (3)
2008年04月06日付 Radikal 紙

エルゲネコン捜査への希望をもって説明し始めた、最近の「エルゲネコン史」シリーズのクライマックスの部分の1つを私は今日書くことになる。昨日まで3度にわたって(軍が選挙で)選ばれ国会から承認を受けた文民政府へ抵抗し、トルコの将来に自分自身で決定を下した例、すなわち「クーデター」を説明した。今日は4番目の、そして実現に最も近づいたクーデターの順番となった。
2002年12月にコペンハーゲンで開かれたEUサミットに大きな希望を持って臨んだが、(加盟交渉が正式に開始されることで)EUの加盟候補国となるか否かの決定のために2004年末という期日を提示された公正発展党(AKP)政権は、事態の枢要な点が、国内でコペンハーゲン基準に沿った民主的改革を行うのと同時に、キプロス問題を解決の道筋に乗せることにあると考えていた。そして昨日もご説明した通り、2003年3月の大きなキプロス・チャンスは、政府(の要請)にもかかわらず逃され、逃させられていた。2004年1月になって、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相は頼みの綱を自ら手繰り、まずダヴォスで心ならずも彼と会見した国連のコフィ・アナン事務総長に「キプロス問題解決プランであなたのイニシアチブを受け入れます」と言って大きな希望を与えた。アナンプランは墓場から舞い戻り、再び交渉のテーブルにやって来た。アナンはキプロスの両サイドをニューヨークに招いた。
北キプロス・トルコ共和国(KKTC)のラウフ・デンクタシュ大統領は、トルコ政府の圧力により、選挙に勝って首相となっていたメフメト・アリ・タラート首相も代表団に含めることを余儀なくされた。しかし代表団の残りのメンバーはおなじみのデンクタシュ・チームだった。デンクタシュは今回は空港に降り立つやいなや「我々はノーの返事をしに来た」とは言えなかった。なぜならデンクタシュは、アンカラで求めた支援を一向に全く得られないでいたからだ。
代表団のニューヨーク滞在中、アンカラでもおかしな出来事が起こっていた。2人の軍司令官をはじめとして、軍の上層部が実業家からメディアのオーナーに至るまで、一連の半極秘会談を行い、ほとんどあけすけな形で(1997年)2月28日過程ばりのポストモダン・クーデターへ、メディアと世論の支持を求めていたのだ。さらに一部のベテラン政治家は公の場で「革命政権の首相は私だ」と言って回っていた。もっと奇妙だったのは、この2人の軍司令官が実際にその政治家と会談し、彼にいくつかの要請をしていたことだ。
ニューヨークのデンクタシュ代表団からみて最も危機的なことは、アナンの仲裁を認めるという問題であった。デンクタシュとその側近は、事態がそこへ至るまでにトルコ政府から「通達」が出ることを確実視していた。アンカラから待っていた通達は一向に来なかった。最終的にデンクタシュはヒルミ・オズキョク参謀総長に電話をしたが、得られた返事は「私が憲法上できることはここまでだ」というような形のものだった。デンクタシュは、2人の軍司令官(の企て)が不成功に終わり、ヒルミ・オズキョクを超越することができなかったことを理解し、彼もまた観念した。
このとき2人の軍司令官を挑発し、2月28日のようではなく(1980年)9月12日のように、直接的なクーデターに突入させようとした勢力もなくはなかった。それまでに準備されていた、AKP政権の転覆を目指すサルクズプランの代わりに、今度は直接クーデターが求められていた。1人の司令官がしばらくの間怒りを抑えられず、「歴史は私のことを記すのだ」と口にしていたことも伝えられていた。
こうした混乱の真っ最中に、ニューヨークでのキプロス会談が終わり、スイスのビュルゲンシュトックでの話し合いの期日が調整されている間、私は政府のある要人中の要人と私的に話し合う機会を得た。会談した大臣に軍の筋からやって来た噂を伝えたとき、その大臣は「全部分かっている」と言い、「サルクズ」というコードネームまで使ってみせた。「それではどうするのですか?」と聞いたところ、大臣は「待ってくれ、いろんなことが起こるだろうから」と答えた。それから4年が経ち、我々はまだ待っているではないか!
今日、AKPについて起こされた解党訴訟とエルゲネコン捜査が関連づけられ、さらに初めの数日でこの関係を政府の一部の閣僚が公然と口にもした。口にはしたが、実際には我々の知る限り、エルゲネコン捜査は未だ、例えば2004年の不安定な時期の首謀者には達していない。
その当時に関連して、当時のオズデン・オルネッキ海軍総司令官のものと言われており、まずあるインターネットサイト上で、のちに新聞紙上で、最後には詳しい情報付でノクタ誌に掲載された日記が本物であることが、エルゲネコンの検事によって確認されたと言われている。つまり検事は少なくとも日記は手に入れているが、その時期に私に情報を提供した重要閣僚の情報は未だに持っておらず、そのため捜査が真のクーデター計画に及ぶ可能性はそれほど高くはない。
そればかりか、明日以降説明するつもりでいるが、トルコでは他の出来事も起こっているが、政府は手中にある捜査力を全く行使せず、公共機関に全く立ち入らなかった。そうしたこともあって、エルゲネコン捜査は1人の愛国心を持つマフィアと周辺にいるいく人かの熱狂的なアクターの捜査以上になることを今のところ何も約束していない。つまり、私が名付けるとすれば「小」エルゲネコンは捜査されているが、「大」エルゲネコンに触れられるか否かはいまだに大きな謎だ。
ススルルクを思い出して頂きたい。ある扇動家と泥棒が裁かれ、罰せられたが、「大計画」を準備、実行し、実行させた者たちは誰も触れられず、触れられようとさえもしなかったではないか。
エルゲネコンでも同じ道筋をたどるのではないかと危惧している。
お許し頂ければこのシリーズに1日お休みを頂いて、火曜日以降再開しよう。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:13542 )