Ismet Berkan コラム:エルゲネコン8年史 (6)
2008年04月10日付 Radikal 紙

そろそろこの連載を終わらせたいと思っているが、とても手短に説明し、書こうと思えば書くことのできる非常に多くのディテールを省いたにもかかわらず言葉は長くなるだけ長くなり、一向にきょう現在までたどり着けていない。今日までたどり着けていないだけでは足りないかのように、出来事をおおよそ起こった順番で説明する一方で、言葉が長くなりすぎないようにとだけ考えて、割り込んでいくつかの追加情報を紹介することもできていない。
昨日(のコラムで)昨年の共和国ミーティングまでたどり着いていた。ミーティングに従い、それに参加したとても多くの人々にとって、ミーティングの目的は公正発展党(AKP)が党内から大統領を選ぶことを阻止することであり、少なくともこの企てに抗議することであった。
しかし、ミーティングの仕掛け人たちからすればこれは主要な目的ではなかった。ミーティングによって本来目指されていたことは、トルコを徐々に5月27日クーデター前のような状況に陥れることであり、社会の中で二極化を進め緊張を増大させることであり、この緊張が街頭での行動に転化したのちにクーデターが起きることをもみ手をして待ちはじめることであった。ミーティングはこの過程の最初の一歩であった。
ミーティングが開かれる一方で、憲法が規定した大統領選挙の日程も動き始めていた。(大統領)候補となるための申請期間が終了する前日になって、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相は「アブドゥッラー(・ギュル)君が我々の候補者である」と述べた。1巡目の投票は4月27日金曜日に行われ、その日の夜半にかけて参謀本部のインターネットサイト上に掲載された通達とトルコはガチンコで衝突した。
第5のクーデターはこれであった。
参謀本部の「仮に憲法裁判所がこの選挙を無効としなければクーデターを行おう」とも読める通達は、トルコで彼らの全ての計画を壊すことになる事件の連鎖を引き起こした。
初め、政府は尻尾をぴんと立て、次の日に厳しいと言える発表をした。しかし(政府は)これにも満足せず、早期総選挙と大統領の直接選挙を可能にする修正を企てた。
一挙に選挙モードに突入すると、エルゲネコンの計画は倒れた;なぜなら彼らは選挙が2007年11月に通常のタイミングで行われると考えており、行動計画もこれに従って立てられていたからだ。
参謀本部の通達により、クーデターの危機が「明白で間近である」ことが明らかになると、共和国ミーティングに参加した人々の大半を含む、とても多くの人々が考えを変えた;そう、世俗主義は重要であり、この政府も気に入らなかったが、彼らはクーデターもまた望んではいなかったのだ。
つまり4月27日通達は意識的に、あるいは無意識に、エルゲネコンの計画をも壊し、軍事クーデターの正当性を失わせる原因となった。7月22日(総)選挙でAKPが47パーセントの得票を得て、ミーティングの仕掛け人たちが支援した共和人民党(CHP)と民族主義者行動党(MHP)が望んでいたほどの成功を収めなかったことが分かると、エルゲネコンの計画は完全に狂った。
そもそもその頃イスタンブルのウムラニエにある家で見つかった手りゅう弾を契機に始まった捜査が、エルゲネコンの武力行動の側面を明るみに出し始めていた。かくして今日我々が話題にしている捜査はこれである。
捜査の最も重要な発見事項の1つはといえば、共和国ミーティングの前に起きたジュムフリイェト紙爆破事件-行政裁判所襲撃事件-ウムラニエ爆破事件が関連付けられたことであった。なぜならジュムフリイェトの爆破犯と行政裁判所の襲撃犯が同一人物であることは分かっていたが、分かっていなかったのは「宗教主義者-民族主義者」のラインにある襲撃犯が、実際には「国民主義」を標榜しAKPからどんな犠牲を払ってでも救われることを目指していたもう1つの地下組織の命令下にあったかどうかということであったからだ。今、我々はそのことも知っている。

***

順番は6番目と今のところ最後となるクーデターに回ってきたが、またしても紙幅が尽きてしまった。お許し頂ければ明日この話をまとめ、終わらせよう。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:13626 )