Abbas Guclu コラム:高卒に関する国民教育省新施策の問題点
2008年05月04日付 Milliyet 紙

 国民教育省は、高等学校における留年の可能性をほぼゼロにしようとしている。初等教育の学校では実際のところ起こり得ないように。

 さて、進級はなぜここまで容易にされているのだろう。子どもたちのことをよくよく考えているからであろうか。現代の教育制度が進級を必要とさせているであろうか。それともこれは、地方選挙を目前にして、子どもたちを喜ばせる新たな方法なのであろうか。

 この問題には、これまでに述べられた数多の「戯言」がある。だがこれらは全て、真の理由ではない。国民教育省が公式に発表をおこなわないとしても、真の理由は、僅かずつ進む学生数の増加、学校数の不足、そして生徒たちから一刻でも早く解放されたいとの国民教育の望みである。

 というのは、国民教育省にとって生徒たちそれぞれが極めて重大な支出の本源であり、財源が不足しているためだ。公正発展党によれば、この問題への対策は、教育に対しより多くの財源を割くことではなく、生徒たちをシステムの外へと追いやることである。チェリキ国民教育相やそのスタッフからこれらとは異質の歩み寄りが見られたとしたら、そもそも驚愕したであろう。

 国民教育省は過去にも、学校の校舎を賃借という方法で確保する予定であると発表した。国民教育省が規格を決定し、出資者が校舎を建設する、そしてその後は国家がこれらの校舎を長期にわたり賃借するというものらしい。こうしたことに、もはやさもありなんだ。

 10-15年、最長で20年間の賃借金を支払うことで校舎の容易な建設が可能であるなら、なぜ長期ローンを組んででも国有の校舎を政府自ら建設しないのであろう。彼らは国民には、家賃を払うかのように(借金して)マイホームを持ちなさいと提案しているではないか。ならば学校を建設する際になぜこれを考慮に入れようとしないのか、理解など不可能だ。

 さらには、国家が学校や病院、道路を建設しないのであれば、他に何を行うつもりなのであろうか!その最も基本的な仕事はこれらではないのか。その上滑稽なのは、毎年数十万戸もの住宅を世に送り出している集合住宅整備局がなぜ学校を年間千校建設しないのかということだ。

 公正発展党政権もしくはその他の政権が、もし教育問題に真剣に取り組んでいたら、学校に関する問題は今日までにとっくに解決をみていることであろう。だが彼らはこのような意図を持ち合わせていない。

 校舎を借り、生徒を登校させずにすぐさま卒業させ、学習塾部門に毎年80-100億ドルつぎ込むがいい、そしてこれらの名の下、成功を収めていると言うがいい。カスムパシャ(エルドアン首相の出身地)の言い草で「騙すことはできないよ、兄さん」。

■ トルコ語に要注意!

 我々は、新たな進級規定の最終的な形を週内にも知ることになるだろう。まだ承認はなされていないようである。私が最も懸念しているのは、言語・表現の授業の動静だ。周知の通り、他の科目で良い成績を修めても、言語・表現の授業の成績が平均2.5点を下回れば留年の危険性があるが、上回れば条件付きで進級することができる。

 しかし他の科目ではこの壁は2.0点である。新規定では言語・表現の成績が良好ならば、他の科目のうち5科目で及第点に到達しなくても進級が可能ということになる。これは母語教育の重視という観点からは一貫した解決策のように映る。だが実際の適用では恐るべき問題が表れうる。例えば、トルコ語教師が不当に権限を行使しうることになり得るのだ。当然トルコ語教師全てを同じ天秤にかけることは不可能だが、この点に困難が存在することを知らない者はいない。

 公正発展党政権中にトルコ語のこうした特別な問題に終止符が打たれることは、たとえそれが望まれたとしても不可能である。何としても実現させると言ったところで、強い痛みを伴うものとなるだろう。このため、おそらくより異なる解決策が導き出される可能性がある。例えば、他の全科目で優秀な成績を修めた生徒が、教職員会議の決定により条件付きで進級するという事態も起こりうる。本来であれば放校という成績の生徒たちにも、新たな権利が認められうるのだ。さもなくば生徒たちがトルコ語の敵となることを避けることができないのである。

 さらにトルコ語は、諸大学においても必修の科目だ。トルコ語の授業に落第すると状況は厳しくなり、その授業の単位なしでは卒業することは不可能である。これはことの一面だ。だがさらに危険なのは、我々が母語を無理に、点数や放校の恐怖から教えようとすることである。そして、それでも不十分だという具合に大学までそれを続けることである。

 しかしトルコ語を、書き言葉、話し言葉として申し分のない形で教育するという課題は、初等教育で解決されるべきだ。現在の到達点は明らかであろう…。

 まとめ:教育においてある決定がなされる際、十分な考察が必要である。特にトルコ語の問題については…。

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( 翻訳者:岩根匡宏 )
( 記事ID:13729 )