Ismet Berkan コラム:AKPの抱える矛盾(2)― 経済的困窮の代償を払うのは?
2008年05月08日付 Radikal 紙

今日のトルコと公正発展党(AKP)が政権に就いた2002年のトルコは同じだろうか。疑いなく同じでない。
同じでないと言うとき、まず言えるのは、2002年にAKPを与党にした諸条件がなくなってしまったことだ。肯定的な意味で生じた変化があったことは否定できない。
少なくとも我が国は統制不可能な、明日をも知れない国から、統制された、そしてより重要なこととして見通しを立てることができる国になった。この点で果たしたAKPの役割は全く疑いなく、とても大きい。
ここで単純な推論を立てる必要がある:2002年(選挙)においてAKPへ票を入れた人と今日AKPへ票を入れている人は同じ人物ではない。そう、名前も苗字も同じだがその人はすでに同じ人間ではない。2002年に入れられた票は反発票の色彩が濃く、政治や政治家に対する反発の表明であり、妥当な政党や政治家を探す行為であった。今日はと言えば、入れられた票の性格はかなり異なっている。今日、有権者は希望や、よりよい明日や、よりよい生活のために票を入れている。

さて、だが(2007年)選挙後に起こった論争含みの緊張した雰囲気や、のちに起こった解党訴訟は、トルコを再度見通しの立てられない国にしはしなかったか?してしまった。これにさらに国際的な金融市場の収縮のため国に入ってくるはずの外国資本の量の減少が生み出した影響と、上昇するインフレ率のため公定歩合も上昇していることが国内市場に生み出す深刻な萎縮効果を加えて頂きたい。
こうした条件の下で、「消費者信頼感指数」が地に落ちてしまうことは全く驚くべきことではない。
人々は、もしあれば、ポケットにあるお金で借金を返済したいと思っており、新たないかなる消費もせず、家や自動車のような大金の必要なものの購入を先送りにしている。
目下、人々は不安だけが感じられる状態だ。より正確に言えば、不安がはっきりと分かるようになった状態だ。明日この不安が現実のものとなり、会社が急速に労働者を放出し始め、会社が銀行に借入金を払えなくなって倒産し始めたなら、我々はどうするだろうか?

AKPについての解党訴訟がなくても、こうした経済的困窮は起こるはずであり、そもそも起こり始めていた。だが疑いなく解党訴訟は、起こっていること、あるいは起こることになっていることの威力を増大させている。
そうして昨日このコラムで私が書こうと努めたことは、この点で重要である:これらの問題で焦燥しており、失うものがあるために不安を感じている、あるいはそもそも失い始めている新しい中間層は、罪を誰に見出すだろうか?
新しい中間層は、自らの身に降りかかる事のせいで、AKPに責任を問うであろうか、共和人民党(CHP)にであろうか?
中間層は自らに降りかかる事を「民主主義を咀嚼できない者たちがAKPに対して仕掛けた陰謀」に起因すると考えるだろうか、AKPが今いる場所でけんかを引き起こし、災難に首を突っ込んだと考えるだろうか?

* * *

これらの問いを、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相とその側近たちによる、「解党訴訟がどのような方向で結論が出ようとも、一刻も早く決着すべきだ」という言葉で我々が要約できる分析を私は正しいと考えるために問い掛けている。
最終的には代償が支払われるだろうが、この代償もまたようやく体勢を持ち直したばかりの中間層の構成員が今一度支払うことになるだろう。そして代償を支払う人々は彼らがその責任を問うときに誰に責任を問うだろうか?
首相とAKPは、一方で自らが責任を問われないように努めている。だが他方では、生じる責任を大きくするいくつかの経済政策へ向かって舵を切らずにはいられなくなっている。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:13760 )