Taha Akyol コラム:シェリフ・マルディンは何を語っているのか?
2008年05月26日付 Milliyet 紙

シェリフ・マルディンは我々の最も偉大な社会学者である。「街区の圧力」という社会学的概念に先生が言及すると、ほとんど「シャリーアの危険」の証拠のように示された。シェリフ先生は象徴的な言葉によって「教師がイマームに敗れた」と述べたのだが、ご存知のように、シャリーア体制が来ている[と解釈された]!先生は自身の「街区の圧力」概念がこうした形で用いられることを「快くはない」と述べていたが、曲解は続いてきた。

先生の分析を次のように要約することが可能である。「善、真、美」といった種々の価値は個人と社会の生活に意味を付与する。共和国主義者のイデオロギーは、日常生活レベルでも高次の哲学レベルでも、このような価値を十分に創出できなかったゆえに、様々な社会層においてこの空白を伝統的組織や諸価値、最近では宗教が埋めている。

問題は単に宗教に関することではない。シェリフ先生は、1977年における『青年と暴力』という論文においても、共和国が建てた「大きな構築物」の中で青年が「意味の欠如」のためにいかに翻弄されたかについて解説していた。先生は、『宗教とイデオロギー』、『イデオロギー』という著書においても、共和国の「ナイーブな実証主義」というイデオロギーにおける「意味の欠如」を説明している。

■ 欠如を埋めること

シェリフ先生は、世俗的な西洋ではカントのような哲学者が発展させた、さまざまな思想の価値がこの欠如を埋めたが、我々(の社会)では、恐怖と圧力ゆえにこのことがなされ得なかったと説明している。例えば「世俗主義を議論することを恐れている」と述べている。当然ながら、議論しないことには世俗的な種々の思想すら発展しない。さらに、1930年代にはカドロ誌が、(トルコの)革命の「世界観」の欠如を認め、報じたのだが、沈黙させられた。

今日、「街区の圧力」という用語を説明する時、シェリフ・マルディンは、デュルケーム、そして特にヴェーバーのような偉大な社会学者を想定しており、社会学の用語によって語っているが、こうした言説が政治的反動の出来事というレベルに矮小化されている!リベラリズムや新たな科学哲学すら「反革命」として断罪しているのが、この人々である!

トルコ科学アカデミーがシェリフ先生を放逐したことは、このイデオロギー色のある狭隘な思考の典型的な例である。では、現代思想の諸価値はいかに発展するのだろう?
知的かつ思想的成果を生む唯一の方策は、思想の自由競争ではないだろうか?

■ 「文化の変容」

第二の問いは次の通りである。共和国主義者のイデオロギーが社会の各層に残した諸価値の欠如を「組織的反動」が埋めているのだろうか?

共和国が影響力を行使できない「価値の領域」で、オスマン朝の「街区」の伝統の中で消化吸収されていた諸価値が、[つまり]この間に宗教が強力であったということは正しいが、「イマーム」という象徴を目にして、(言及された)諸価値が「組織的反動」であると言うことは、社会学を陰謀理論に矮小化することになる。

しかし、都市化によって再び姿を現した「街区」は昔の街区とは違うのである!都市化、教育、商業化、外部への門戸開放、多元化といった変化の活力は、「街区」の価値をも変容させている。例えば、法人組織化はまさに近代化の活力である。

先生もまた、この問題が「文化の変容」という観点から研究される必要があると述べている。また、先生が明らかにしているように、「街区の圧力」の本当の意味は、個人主義化、多様化を快く思わない「視線」である!

世俗派においても非常に圧倒的である、この「視線」は、すなわち異質と「見た」あらゆることに、敵愾心を感じている。

両者にとって問題の核心には、個人主義化と多様化を発展させるリベラルな自由思想を獲得するか否かということがあるのである!

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:13929 )