Mumtaz’er Turkone コラム:憲法裁判所は個人を世俗化しうるのか?
2008年09月07日付 Zaman 紙

私は昨日のコラムで、もし世俗主義がひとつのライフスタイルなら、憲法裁判所が指針となる説明をする必要があると述べたのだった。というのも、裁判所は公正発展党と別の立場でわれわれについての規則を定めているからだ。

お聞きしますが、世俗的なライフスタイルに従って生きるということはどういうことでしょうか。これは問題の最も重要な点ですので、繰り返し言うことを厭いません。憲法裁判所は公正発展党を「世俗主義に反する活動の中心」であると結審した時に、侵害された世俗主義がひとつのライフスタイルだと考えるならば、意味不明なこの定義についてわれわれに説明しなくてはならない。少なくとも、「世俗的ライフスタイル:」というふうに始まる定義を判決理由に付加しなくてはならない。


われわれはこの定義を必要としている。
憲法裁の命令によって受け入れる必要のある「ライフスタイル」を、一個人として理解せず把握もしない、というのではいけない。われわれを啓発することこそが、この主張を重要な判決の論拠とした裁判所の責務である。これが第1点である。第2点は、世俗的国家体制を継続しうるために必要である。そしてこの第2の必要性を誰もが真剣に受け取らなくてはならない。世俗主義がひとつのライフスタイルとして私に頑なに主張されるのであれば、私は自由をもつ個人としてこの状況には耐えられない。その場合、世俗的国家体制を継続することは困難になる。世俗主義がひとつのライフスタイルとして受け入れられることは、私の能力を超える事柄が要求されていることになり、世俗的国家体制に対する脅威を内包することになる。

判決理由により明確にされるだろうこの抽象的な議論には、公正発展党訴訟に進展した、完全に具体的な応酬がある。この具体的な応酬は、訴状とともに審議事項となり、公正発展党が行った抗弁で重要な位置を占めた。
「世俗的ライフスタイル」が存在しうるためには、個々人が世俗的になれると仮定する必要がある。「世俗的個人」たちだけが「世俗的ライフスタイル」を受け入れることができる。「世俗主義は国家体制以外に、個人についての特徴となりうるのだろうか?」 「個々人は世俗的になりうるのか?」 この議論も、特に公正発展党党首の発言というかたちで審議事項に含まれていた。
公正発展党党首は、国家は世俗的になりえようが、個々人は世俗的になれないと主張している。訴状はこの発言を「世俗主義に反する活動」として一つ一つ列記している。この発言が「世俗主義に反する活動」として憲法裁の判決理由に位置づけられることは、「個々人にも世俗化を無理強いする」ことにつながる。


訴状に記載された公正発展党党首による次の文言を、われわれは有罪判決の論拠として目にするのだろうか。
「人は世俗化しない」 「本来、世俗主義はひとつのシステムであり、個人ではなく国家の世俗主義が問題なのである」 「私は人間としては世俗的ではないが、国家は世俗的である。これにも関わらず、私は世俗的体制を護持する義務を負っている」

私は一国民としてこの言葉に賛同する。さらに、このアプローチは世俗的国家体制を維持するために不可避であると考えている。世俗主義をこの枠組みで擁護する政党は、私の自由を保証すると信じている。もし公正発展党党首のこの発言が「世俗主義に反する活動」であるなら、「諸個人は世俗的でなくてはならない」という判決をわれわれすべてが受け入れざるを得なくなるだろう。
そうであるなら、われわれにも「世俗的ライフスタイルとは何か?」という類の質問を、「世俗的個人」のために問う権利があることになる。「個々人はいかに世俗的になるのか?」 「世俗的個人はどのような特徴を持っているのか?」 「諸個人が世俗的であることの強制はどの法的拘束力によるのか?」
もし裁判所が、判決理由の中で公正発展党党首の発言を罪と認めているのなら、翻ってわれわれ国民に対し、個々人がいかに世俗的になるのかについて、少なくとも数行からなる説明を付す必要がないだろうか?
私は世俗的ではない。さらには正直なひとりの国民としてこれが不可能だと考えている。人生を生き、個人主義を実践する際に、私の信条が何処で入り込み、何について影響を及ぼしているのか、正直なところ私にも分からない。崇高なる創造主を信奉する人々と、占いや占星術を信じる人々は、世俗主義に相対する状況に違いがあるのだろうか?
しかし私は国家体制が世俗的であることは、非常に正しく極めて重要な原則であると考えている。さらに、後進的で未発達な全体主義的思想を自由な個人に強いるための一道具として世俗主義を使うこと、すなわち「個々人は世俗的でなくてはならない」という思考を主張することは、世俗主義と世俗的国家体制に有害であると私は見ている。

個人が世俗的であることを要求することは、あるイデオロギーや哲学的信念を世俗主義の覆いの下で社会に強いることである。もし憲法裁判所の判決理由において、公正発展党党首の「人は世俗的にはならない」という発言を罪とするのであれば、「世俗的個人の基準」に関する説明をわれわれは期待する。「世俗的個人とはどんなものですか?」 さあ、どうぞ…。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:14663 )