Haluk Sahin コラム:在外トルコ人いまむかし
2008年09月17日付 Radikal 紙

いまや、旅客機が落ちたのが世界のどこであっても、決まって我々の心はざわついてしまう。そして、私たちはこう問いかけるのだ。「乗客のなかにトルコ人はいたのか?」と。
そして、悔しくも、そういった恐れは往々にして的中してしまうのだ。スぺインで、アフリカで、そして、シベリアで・・・。いずれの旅客機墜落の際にも、乗客のなかにはひとりか、それ以上のトルコ人が居たということである。
かつては明らかにそうではなかった。たとえ遠い異国で旅客機が墜落しても、我々が気を揉むことなんてなかったのだ。そのような場所にトルコ人がいる可能性は、まずないと言ってもいいほどに僅かだった。
トルコ人はある時期にザクロの粒のように四方八方に散らばったのだった。この地球の片隅で、ほとんど予想だにしないような場面で我々はトルコ人と出くわす。
いくら[トルコから]遠くへ離れたところで、「誰にも解りっこないから」とトルコ語で喋るのはいまやかなり難しくなっている。
トルコ人がいつ何時、どこで我々の前に姿を見せたものか、全く定かではないのだから。
自国に閉じこもるトルコ人の時代は終わった。私たち自身を世界から遠ざけることも、[逆に]世界を我々から遠ざけることも、いずれもできっこない話なのだ。
ああいった[国に閉じこもったトルコ人の]時代を経験したことのない方々には、ひところはトルコ人が世界からどれほど隔絶されていたか、そもそも理解できないはずだ。
思い浮かべてみて欲しいのだが、「ヨーロッパを見聞した人物」という言い方が[当時は]あった。アメリカを自らの目でみてきた人々は、まるでクリストファー・コロンブスのように扱われたものだ。
しかし、その当時は今日のようなビザ[発給]に関する問題は存在しなかった。国境を外に向けて越えられなかったのは、経済的な、そして文化的ないくつのも要因があったがゆえのこと。
朝鮮戦争によって、この壁には初めて風穴があいた。[出征した]人々はいくつもの珍しい話を携えて復員したのだった。その後、ドイツへと労働者が流れ込み始めたのだ。
[こうして]ダムは決壊し、トルコは国外へ、最初のころは軍隊を送り出し、今日では労働力を送り出してきた。1980年代以降、トルコが世界経済に統合されると同時に、そこ[トルコ国外への人の流れ]にビジネスマンが加わる。チャンスを生かそうとする彼らが、向かわない場所なんてなかった。墜落した旅客機にトルコ人が乗っていることからも、そういったことを我々は思い知る。
ある私の友人が教えてくれた話なのだが、どうやら、カイロの空港で彼の向かいにビジネスマンがいたらしい。友人が[そのビジネスマンに]行先はどこなのかを尋ねると、「[南米の]パタゴニアですよ!」と返ってきて、友人は馬鹿にされたような気がしたそうな。
が、ビジネスマンの返事が正解だったらしい。
一般的に、トルコ人というのは閉鎖的な社会の人見知りがちな子供のようだとされているのだが、そうであるはずの彼らの見せるこのような外向性に驚愕する向きもある。何たること?このような勇気は一体どこから湧いてきたのか?と。
おそらくは、あれほどの間、閉鎖的な社会を経験したことへの鬱憤によるものだ。そして、もちろん必要にかられたがゆえ。これは、いい意味での成長なのだ。
とはいえ・・・。外国へ行くトルコ人がごく僅かだったころには、異国で偶然会ったトルコ人たちはひどく喜んで、まるで親族のようにお互いを遇したものだ。私はそういった実例を随分たくさん経験した。
いまはそうではない。いや、ないらしい。まずは互いのことを知ろうと手を尽くすらしい、「どなたの縁故の方ですか?」と。
そうしてから、それに応じて対応するのだという。
要するに、彼らは根深い既存の区別を通じてトルコ[社会]を己が身もろとも[異国に]持ち込んでいるらしいのだ…。
何と、嘆かわしいことやら。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:14721 )