Altan Oymen コラム:「国家主義」容認における1929年の役割
2008年09月28日付 Radikal 紙

1929年の「世界大恐慌」のころのトルコの状況はどのようなものだったのか?先だってのコラム2本ではアメリカとヨーロッパでの当時の状況の要約を試みた。今日は、多少なりとも「われわれ」に眼を向けてみることとしよう。
すなわち、1929年時点では、トルコは新たに建国されてからいまだ6年目になったところだった。対外経済関係は極めて限定的なものであった。輸出産品は葉タバコ、干しぶどう、干しイチジクといった限られた農産物で成り立っており、各種工業製品のほとんどは輸入を余儀なくされていたのである。
恐慌の影響を受けるのはそう先のことではなかった。なぜなら、同年中に外貨に対する需要が高まったためである。オスマン時代の債務に対するモラトリアム[支払猶予期間]は終了し、債務の賦払いが同年から始まった。国有化された鉄道についての支払いの大部分も、同年に支払いが開始され翌年にかけて行われる見通しであった。
しかし、同年の恐慌の影響によって、トルコ産の輸出製品に対する需要が低下すると同時に、トルコ通貨の価値が下落したために輸入製品は一層高くつくようになっていった。つまりトルコの[準備]外貨は、次第に足りなくなっていったのである。
(1929年まで、トルコでは基本路線において市場経済の諸原理が効力を保っており、為替コントロールもなかった。トルコ通貨の価値は、今日と同様に日々変動していたのである。)
つまり、いまだ6歳であったトルコ共和国を統治する人々の職務というのは、そもそもが難しいものであったが、恐慌以後、より一層難しくなったのである。

■自由主義に始まり・・・
時代は一党体制期であった。トルコの大統領はケマル・アタテュルクであった。彼の実質的な権限は、大統領としての公式な権限を上回っていた。首相はイスメト・イノニュであった。問題に直接的に関わる閣僚のうち、財務相はシュクリュ・サラチオールであり、通商相のほうはシャーキル・ケセビルであった・・・。
そもそも、アタテュルクをはじめとした誰しもが、新しい国家の経済基盤を構想するにあたっては、市場経済の諸原理から出発したのであった。1923年の経済会議でも、彼らはこの路線の上に立っていた。
実のところ、同時期に、彼らは、当時の社会主義のソ連と全体主義のイタリアが成功を収めていた幾つかの施策を踏襲していった。急速な発展を目指す国家にとって、経済活動における国家の影響力を―彼ら[ソ連やイタリア]ほどではなくとも―高めるべきであると認めたのである。
「国家主義」が国家の高官の間で語られる決まり文句のようになった。とはいえ、国家による経済介入は極めて限定的なものに留まった。対外通商と通貨市場についてシステムが変更されることはなかった。

■国家主義への転換
そういった変更は、1929年の恐慌によって始まった。外貨不足を解消すべく輸入を抑制することが目標となった。租税は増額された。トルコ通貨の下落を防止するために、非常に厳格な為替管理システムが設けられた。
「トルコ通貨価値の保全」に関する有名な第「1567」号法が発布され、あらゆる通貨、外国為替、有価証券、宝飾品といった品目の輸出入、および行使を制限・統制する権限が政府に与えられた。そうして、経済のその他の分野に関する様々な調整がなされると同時に、トルコでは「国家主義」時代が始まった。
当初は、これが「国家的教理」ではなかった。まして、国家主義とは正反対の見解を表明することを誰もためらわなかった。
そのうえ、その途上では一種の政治的な進歩さえ存在したのである。アタテュルクの許可によって(そもそも、当初は勧めと要求によって)自由主義(つまりリベラリズム)を原則とした野党が結党されたのである。「自由党」という党名で・・・。

■しかし、自由主義者だっているはずだ…
トルコ通貨価値保全法の発布、つまり経済への極めて包括的な形での国家介入が開始されたのは1930年の2月25日であった。自由党が結党されたのも1930年の8月12日であった・・・。
つまり、アタテュルクはイスメト・イノニュを首相とする政権を「国家主義」政権といった状態に仕立てる一方で、それに対抗する「自由主義」を掲げた野党を登場させたのである。
フェトヒ・オクヤルはといえば、アタテュルクが最も信頼した政治家のうちのひとりであった。自由党結党以前は駐パリ大使であった。複数の回顧録は、アタテュルクが同党結党のために彼を非常に熱心に口説いたことを伝える。
このことは、トルコの政治における、1929年の恐慌以後のひとつの軋轢である。その時点まで単独政党であった共和国体制は、他ならず経済介入容認路線へと舵を切ったまさにその段階で、その路線に相対する政党の結党を何ゆえ必要としたのだろうか?
確かに、アタテュルクが、複数政党による民主主義をより良しとする自身の考えを、様々な折にふれて語っていたことは、ご承知の通り。
けれども、1930年8月は、そういった一歩を踏み出すにあたって最適な時期だったのだろうか?
評論家のなかには次のように説明する方もいる。すなわち、1929年の恐慌以降発生した輸入超過、輸出不振、為替コントロールといった事態は、国民の不満を増大させた。アタテュルクはこれを調整しようとし、仮に新党が国民の不満の潮流を代表し、与党と論戦に及べば、国民の批判は減少するかもしれないと考えたのであろう、と。
但し、次のような解釈も存在する。いわく「アタテュルクは国家主義への転換を1929年の恐慌以後、認めざるをえなかったのである。彼はそれ[国家主義]が政治の場で批判されることを望んでいたのだ・・・。」
いずれの解釈がより妥当なのかは、知る由もない。しかし、そもそもそのことを議論する必要さえない。なぜなら自由党の寿命はわずか3ヶ月だったのだから。
[自由]党は、さまざまな経済問題以前に、一部の党員が反世俗主義的行動をとったとの罪状と、イズミルで発生した事件のゆえに、解党されたのである。より正確にいえば、フェトヒ・オクヤルはアタテュルクの要求を容れ、ひとりで解党の決定を下し、自身の側近とともに再び共和人民党の[党員の]列に戻ったのである。

■「国家主義」の国是
イノニュ政権は、その後「国家主義」に向けて踏み出した歩みを、ひとり歩み続けさせられることとなった。当時まで共和人民党の原則は4つだった。つまり、共和主義、人民主義、民族主義、世俗主義である・・・。
1931年の党大会で、そこに「革命主義」とともに「国家主義」が加えられた。[党の原則を象徴する]矢の数は6本となった。
1937年には「6本の矢」の原則のすべてが、憲法にも記載された。[こうして]国家主義は国家の諸性質のひとつとなった。
無論、こういった状況は、既に様変わりした。1961年憲法で国家の性質は書き直された。6本の矢の原則は憲法から削除された。新たな条文には国家主義やそれに近しい表現は用いられなかったのである。

■1930年代は国を問わず、かくのごとし
しかし、各国が、様々な形をとりつつも「国家主義的」であったことは、1930年代においては驚愕するようなことではなかった。なぜなら、先だってのコラムで明らかにしたとおり、1929年の世界恐慌の影響は、アメリカのような最も自由主義に基づいている国家をはじめとした非常に多くの国々に、実質的な「国家主義的」施策への転換を強いたのであるから。
ヨーロッパには複数の社会主義国家と全体主義国家が、そして、両陣営の範囲外には留まりつつも「経済への介入をよしとする」王政や元首政が、もとから存在した。それらにいくつもの新参者が加わったのであった。
その後、1939年には第2次世界大戦が起こる。内外向けの通商、金融業界といった経済全体への国家の介入は、極めて民主的で、極めて自由主義的な国々を含めたあらゆる国にとって完全に不可避なものとなった。
事態の変化は大戦後に始まった。まずは、西側ブロック諸国の経済が自由化され、次に社会主義ブロック諸国の・・・。

■今は状況が違うのだが・・・
目下の状況は全くの別物である。経済活動の特定の分野に国家が介入したり、制限規定を設けたりすることは、今日の世界においては決して望ましいことではない。世界の商業、工業、銀行業は、大部分がグローバル化され、また自由化されたのであった・・・。
先進各国と発展途上各国の大部分は、そのような秩序に足並みを揃えたのであった・・・。
パリやニューヨークで起こることは、もはやイスタンブルでも起こるはずであり、[それは]プラハであっても、北京であっても[変わらない]。
消費者として、財布に現金があれば、(または、限度額を超過していないクレジットカードがあれば)、欲しいブランド製の服を着ることができるのだ・・・。経済力に応じて、お望みの種類の移動手段を(馬でも、乗用車でも、トラックでも、ボートでも)、あるいは物件を(庭付き一戸建てでも、アパートでも、別荘でも、超高層ビルでも)手に入れることができるのである。
現実には、世界の様々な社会には、財務状況に(またはクレジットカードの限度額に)不自由している人々もいた・・・。(まして、クレジットカードそのものを持っていない人々も・・・。)しかし、まさに彼らに対してテレビのCMで流される慰めの文句がある。
「眺めるだけなら君のもの」
社会のそのような層の人々は、そういった形で、統治されてきたのであった。

***
しかし、いまや事態はまたも変化した。決して望まれたものではなくとも、「国家による介入」を、最も自由主義的な国家の自由主義的なエコノミストたちの中で最も自由主義的な人々もが要求しはじめた。さて、この先行きやいかに?

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:14794 )