Osman Ulagay コラム:「シェケル・バイラム」か「ラマザン・バイラム」か
2008年09月28日付 Milliyet 紙

イスタンブルで裕福な層に入る家庭の長である私の祖母は、シェケル・バイラム(砂糖祭)とクルバン・バイラム(犠牲祭)が伝統に沿った形で祝われることを非常に大事にしており、バイラムの初日には全家族を家に集めたものだった。
家族の他に、亡くなった夫が設立した家族経営の会社で長年働く一部の従業員たちも、「女主人」の手にキスをするために家を訪れ、バイラムを祝ったものだった。家では骨を折って準備された甘いお菓子や砂糖祭にちなんだお菓子が訪問者に供されたものだった。

私の父方の祖母は断食をし礼拝をしたものだったが、同時に最初に帽子をかぶった女性たちの一人でもあった。私の父は断食はしないが、バイラムの朝には私もつれて祖先が眠る墓へ参りに行ったものだった。これらすべては、半世紀前のイスタンブルに生きた人々、イスタンブルをルーツとする文化そしてライフスタイルを構成する要素だった。

エルドアン首相によれば、ラマザン月の終りに祝われる宗教的なバイラムは「ラマザン・バイラム」と呼ばれる必要があるらしく、「シェケル・バイラム」と呼ばれるのは「文化的衰退」であるらしい。こうした戯言をいう首相は、以前にも「団結、協調、相互扶助」と呼びかけた。首相は、折々に「団結、協調、相互扶助」 を呼びかけてはいるが、昨今の全ての言動は、彼を最も多忙にする事柄が「我々」と「彼ら」を区別することであることを示している。

■エルドアン基準
現在、政権の座にあることが彼にあらゆる問題の基準を示す権限を与えたと考え、自身の文化、物差し、好み、こだわり、あさはかさを皆に押し付けるという野望に我を忘れているかのようだ。
「エルドアン基準」に従い、彼の気に行っている新聞を読んで彼が示すように振る舞い、お気に入りの国民として見なされる。あるいは、「彼ら」と見なされて二級国民扱いを受けるか、どちらかだ。あなたの文化、物差し、価値は、これらを受け入れない人たちによって侮辱され、疎外されるだろう。

こうした思考はトルコを衝突や災難に至らせるものだ。世界が多次元で構成される上位性と下位性を経験している状況において、トルコを統治すると主張する者たちがこうした道に入り込んだことは、私たちにシェケル・バイラムを後味の悪い状態で迎えさせている。そうであっても、皆さま良いバイラムをお迎えください。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:14796 )