Hasan C. Guzel コラム:「私たちのムスタファ」―没後70年・関連文書の行方・映画
2008年11月09日付 Radikal 紙

読者の皆さん、明日(10日)は偉大な指導者アタテュルクの亡くなった日だ。死去から70年。「彼」を、感謝と尊敬を込めて追悼する。「彼」は、解放戦線の導き、トルコ共和国国家をつくり、トルコの近代化と変革を実現したのだから。

ケマリズムの破綻
 しかし、残念なことに、この偉大なリーダー、政治家は長年にわたり、先入観で判断されてきた。日々の政治の中心に引っ張り出されてきた。アタテュルク自身が「私の思想を教条として固定化しないように」といって反対したという、ケマリズムと呼ばれるこのいい加減なイデオロギーは、アタテュルク主義を、教条主義的で変化しない型にはめ固定してしまった。
 アタテュルクは、彼が愛した国民にとって、タブーとなり、また偶像として祭り上げられた。国民を、隷属的状況から救い、全く新しい独立した国家をつくった、先見性のある偉大な国民のリーダーであり英雄である人物を、無理矢理愛するように仕向ける必要がどこにあるだろうか?さらに、国民がすでに自分たちの英雄として受け入れているこの政治家を守るために、法律までつくるような国が他にあるだろうか。しかし、今日、トルコには「アタテュルク保護法」があり、まだ有効である。しかも、もしあなたが、この屈辱的状況をなんとかしようとしたなら、「アタテュルク屋」は一致団結して大騒ぎし、そして、あなたを、「アタテュルクの敵」と宣言するに決まっている。

偶像化されたアタテュルク
 さて、(80年クーデターを指導し、後に大統領となった)エヴレン将軍には2つの良い施策があった。ひとつは20年来休日とされてきた5月27日を休日とするという不名誉に終止符をうったこと。第二は、11月10日を「喪の日」とすることをやめたことだ。若い人たちは1980年以前の11月10日を知らないでしょうが、あの偉大な超人を、その戦いや革命や、比類なき政策によって記念する代わりに、無理に喪の雰囲気がつくり出されたものだった。
 こうした愚かな事態の原因は、アタテュルクを偶像化し、タブーにし、「彼」の思想を教条主義的な型に押し込んだ、視野の狭いジャコバン主義的共和国主義者と、アタテュルクを悪用し政治的に利用しようとしたケマリストたちにある。アタテュルクを偶像化しようとする人々は、ついには、「彼」に神格を授けようとさえした。「アタテュルクは偉大なり、アタテュルクは偉大なりAta ekber, Ata ekbe」というもの、あるいは、「カーバ神殿はアラブに、我々にはチャンカヤ(大統領府)がある」とまがい物の詩をかくもの、手にアタテュルクの胸像をもって演説するもの、11月10日を喪と宣言し、ありえない強制を何年も繰り返したもの。彼らは、国民とアタテュルクの間の距離をつくり、アタテュルクを国民に無理やり愛させようとしているうちに、国民から、その指導者を遠ざける結果となったのだ。
 これに対し、ケマリストに敵対するグループも、アタテュルクを悪用し、聞きかじった根拠のない話を利用し、噂に基づく非難をしてきた。アタテュルクは、この2つのグループの対立のせいで、彼の真の思想では評価されなかった。彼の亡くなった11月10日は、アタテュルク廟への訪問と命日にちなむ演説の間に押し込められてきた。
 死後、70年過ぎたにもかかわらず、この偉大な政治家が今なお十分に理解されないでいることは悲しいことだ。トルコ民族を「近代文明の水準」に引きあげようとしたこの指導者が悪用され、変化の障害となる思想の道具とされたことは、「彼」になされた最大の不正義である。

なぜ、恐れるのか?
 さて、私が首相府事務次官であったとき、大統領のエヴレン将軍がある日、私に、「ギュゼルくん、君はオスマン文書館と共和国文書館の件でいい仕事をしたが、大統領府には、アタテュルクに関する重要な文書がある。その文書の整理もしてくれますか?」と聞いた。私は、興奮で紅潮した顔になったことでしょう。大統領府に重要な歴史史料があることは知っていた。その興奮から、どんな声をだしたかわかりませんが、「ええ、ええ、すばらしい!」と飛びついた。するとエヴレン将軍は(私の態度に)驚き、「この件は、あとでゆっくり話そう」と言った。
 その翌日、大統領のところに行き、「大統領府文書を整理したいと願っており、今後は共和国文書館で保存することができる」と申し入れた。エヴレン将軍は、「アタテュルクの日程、会見を記録した秘書はくだらないことまで書いている。食べたもの、飲んだもの、ときにはある女性と特別に会ったことすら書いている。これらが公表されたら、アタテュルクの敵たちは、この史料を彼への攻撃に使うのではないかと心配だ」といった。私は、アタテュルクがイズミルで酒を飲んだいたレストランで、店のカーテンを開けさせたことを例として示し、何事も透明にした方が常に結果を生むと説得した。もしもこの史料が公開されたら、むしろ一部の人々の間の敵対的な噂話は減るだろうとも言った。しかし、もしこの文書の公開を大統領が望まれないなら、2038年まで、つまり死後100年まで非公開とすることはできると説明した。
 その後、エヴレン将軍は「この文書を国営製紙工場(SEKA)に送り廃棄する」といった。思い出すたびに身震いがしてくる。エヴレン将軍がこの比類なき歴史の宝を無に帰してしまわなかったことを願うばかりだ。

私たちの「ムスタファ」
 さて、アタテュルクの本名はムスタファである。統計によれば、トルコ人は、メフメト、アフメトの次にムスタファの名を使っている。うちの祖父も、曾祖父も、兄弟の一人も、息子もムスタファである。
 もちろん、皆さんは、いろいろな意味のあるケマルの名が、いかにムスタファ・ケマルとなったかの話はご存じでしょう。ケマルの名は、まさにアタテュルクの公式名称であり、ムスタファの方は国民に親しみやすい呼称といえる。一時、言語改革華やかなりしころ、母音調和に沿わないといってケマルを、カマルにしたこともあった。さらには、このカマルの形で本が書かれたこともある。
 母であるズベイデ夫人の「かわいいムスタファ」は、私たちをアタテュルクの人間的な暖かさに触れさせ、「彼」を、冷たい銅像の台座からおろし、身近な場所へ、私たちの間におく、ひとつの愛の象徴のようである。、
 ジャン・デュンダルとは知り合いで、私は彼のことを気に入っている。私同様、彼の書いたものに中毒になっているもの、とくに彼が言葉にこめる叙情的な味わいを楽しむものは、彼がどれほど愛に満ちた、感情豊かな個性をもったひとであるかを知っている。
 ジャン・デュンダルとは、アンカラ大学政治学科で同窓だった。思想界における出身母体は異なっている。意見が食い違うこともあるが、しかし、彼の才能、謙虚さ、親密さにはいつも尊敬の念をいだいている。
 ジャン・デュンダルは、トルコでアタテュルクをもっとも愛し、理解する人間の筆頭に位置する。アタテュルクについて、私たちを感動させた「サル・ゼイベキ」という作品に続く「ムスタファ」という映画は、すばらしいの一言につきる。デュンダルは、この映画でアタテュルクを凍った銅像からときはなった。「彼」を国民の心の中の、本来あるべき場所に座らせた。
 ジャン・デュンダルが、アタテュルクを私たちを天から見下ろす伝説としてではなく、ついに、「私たちのムスタファ」にした。ジャン・デュンダルのこの作品は、アタテュルクと「彼」を愛する人々に対し、本当の意味での11月10日のプレゼントである。

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( 翻訳者:中東メディアトルコ語翻訳班 )
( 記事ID:15097 )