Fikret Bila コラム:ギョニュル国防相の発言内容―住民交換と国民国家
2008年11月16日付 Milliyet 紙

ヴェジディ・ギョニュル国防大臣は、ここ最近、渦中の人物のひとりだ。
ギョニュル大臣がブリュッセルで行った住民交換に関する発言がトルコで反発の原因となった。ギョニュル大臣は住民交換という思想を弁護したことで非難された。大臣の発言は、現在にあてはめられ、まるでクルド問題やアルメニア問題にも『住民交換』を推奨しているかのように激しく非難されている。
ではギョニュル大臣は、「住民交換がなされなければ、このような国民国家を建設することができただろうか」と述べた時、何を意図していたのだろうか。

■エストニアで殉死者記念堂
ギョニュル大臣とエストニアについて話をした際、彼は「まず」と前置きした上で、「ある想いを共有したいのです。少し前にエストニアでトルコ人殉死者記念堂を設立しました。その地にですら460人もの殉死者がいるのです。我々はこういった歴史をもっているのです」と述べた。
ギョニュル大臣は、歴史を知らずになされる解釈は価値を持たず、真実に依拠していないという見方をしている。

■トルコ人か、ギリシャ人
大臣は反発の原因となった発言について、以下のよう説明した。
「私は11月10日、ブリュッセルにいました。建国の父アタテュルクの追悼式典にスピーチを頼まれたのです。私はまず軍人としてのアタテュルクの才能について説明しました。続いて、背後に軍事的成功なしには国家設立はありえませんから、軍隊の才能と成果について話を続けました。そしてアタテュルクのリーダーシップと先見の明、政治的才能について語りました。私が述べたのは以下のことです。
第一次世界大戦後、アナトリアの大地にはひとつの国家が設立されることになっていました。その国は我々が建てるか、もしくはギリシャ人が建てることになっていました。我々は国民闘争(独立戦争)をアタテュルクのリーダーシップによって勝ちとり、そしてこの国を建てたのです。我々が建国することができなければ、ギリシャ人が建国していたでしょう。軍事的勝利を我々がおさめたのです、だから我々が国を建てたのです」

■住民交換の問題
ギョニュル国防大臣は、住民交換に関する発言について私が質問すると、以下のように説明した。
「この問題はトルコメディアに誤解され、解釈されています。まるで私が現在についても住民交換を訴えているように取り上げられ、批判されています。しかしながら私が何を言ったかは非常に明らかです。私は史実を説明したのです。それは何だったのでしょうか。国民闘争(独立戦争)の後、トルコ共和国がひとつの国民国家として形成されたことです。オスマン体制は、国民国家体制ではありませんでした。多民族のシステムでした。オスマン体制ではマイノリティーというものはなく、複数の民族が共存していました。しかしながら、トルコは共和制とともに国民国家のシステムへ移行しました。少数民族というものは、専ら国民国家内に生じるものです。ちょうどローザンヌ条約で「少数民族」は「非ムスリム」であると定義されたように。これが国民国家の条件なのです。

■ギリシャ側が望んだ
ギョニュル大臣はまた、住民交換の要請はトルコ側が提案したのではないことに注意を引き、以下のような評価付けを行った。
『歴史を振り返れば見えてくることですが、住民交換の要求はトルコから出されたものではありませんでした。住民交換を最初に提案したのはギリシャ側でした。この提案は当時の4つの大国にも承認されました。一方アタテュルクから、あるいは同僚達からこのような提案はなかったのです。アタテュルクが下した2つの大きな決断があります。ひとつは経済においてであり、経済特権が撤廃されました。ふたつ目は統一国家の建設が決断されたことです。これは国民国家制度への移行点となりました。住民交換はギリシャ人の提案で、その他の国々の承認、そして当時の国連である国際連盟の同意を得て行われたものです。それ以前にトルコから出て行った国民の権利を救済できるようにと、私が知っている限り1916年まで遡って適用されました」

■イスラエルとギリシャを訪問
ギョニュル大臣は当時のことを説明したあと、「もし、住民交換が行われていなければ、今日、何百万人という少数民族がいるトルコになっていたでしょう』と言い、この発言は国民国家がどのように設立され、力をつけたかを明らかにするために述べたと説明した。
同大臣は史実を述べただけであり、このため『人種差別主義』を支持しているかのように示されることは非常に不当な扱いであると言い、こう語った。
「メディアが行った解釈は歪曲から起きたことです。これは述べておきたいのですが、イスラエル、そしてギリシャを訪問した初の国防大臣が私です。以前には国防大臣は誰も訪れず、避けてきたのです。しかし私は2度、訪れました」

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( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:15138 )