Ozlem Albayrak コラム:バイカルCHP党首「選挙なので、信心深い人たちに親切にします」
2008年11月22日付 Yeni Safak 紙

この問題には気乗りがしなかった。「千年の間、1日に5回書いたとしても、何一つとして変わらないだろう」と、いやいやながら最悪の気分で自分に言い聞かせた「諦め」のせいだけというわけではなかった。私のようなスカーフ着用者が、スカーフあるいはチャルシャフ(黒色長衣)について行うあらゆる発言は、空虚な穴に投げこまれる声のように消えていくと知っているせいというわけでもなかった。

理由のひとつは、おそらく、共和人民党(CHP)が関わっているせいで、「スカーフ」問題について(インターネットに)2日間で20万もの書き込みがあふれたにも関わらず、「この娘たちをいい加減、学校に入れましょう」という(スカーフ着用者の大学進学問題の)領域に話が及ぶと私が完全に取り残され、それはスカーフ着用者の記者が言っていることだと決めつけられるときに感じる痛みにあったのだろう。

それに次の点もあった。すなわち、これは共和人民党の、彼らがいうところの「信心深い人々を取り込む」最初の努力なのかという疑問である。私たちは、過去に共和人民党が右派にも門戸を開き、スカーフを着用した女性をポスターに使ったのを目にしたこともあったが、共和人民党が選挙後に(スカーフ解禁に関する)憲法改正を裁判所に提訴し無効にしたことに驚くことはなかった。そう、私たちは、驚かなかった。なぜなら、私たちはバイカルの親切そうな態度をそもそも全く信じていなかったからだ。

したがって、本当のことをいえば、バイカルが「チャルシャフ着用者に共和人民党のバッチをつけた」という今回の問題はどうでもよかった。「これは一選挙戦略だ」と述べるために一回のコラムをあてるなんてもったいないと思っていた。

しかし、共和人民党の新しいイスタンブル県支部長ギュルセル・テキンが、この「信心深い人たちとの抱擁」イメージが世俗主義を無にするのではと懸念するネジラ・アラット共和人民党党員に対し、「私の姉もスカーフ着用者だ。宝くじであたって議員になったようなあんたは、ひっこんでろ」と言ったというのを読んで、そういうわけにもいかなくなった。

居丈高な態度の共和人民党の県支部長に対し、思わず、「あなたは、これまで(家庭で)幸せだったことがありますか?ギュルセル・テキン」という問いが浮かんだ。彼が真顔で話題にしたスカーフ着用者である彼の姉は、大学に進学しようとしたことがあるのかどうか、進学しようとしたなら追い返されなかったのかどうか、公けの場所にでるためにどんな身を隠す術を使ってきただろうかと、本気で考えた。

さあ、「今までどうして、この種の発言をしなかったのか、選挙が近づいたので急にスカーフに愛着をもつようになったか?」などと言わずに、善意でテキンの意図を、真なるものと解釈しておこう。しかし、共和人民党には、アザーン(礼拝の呼びかけ)の声やコーランの朗誦を不快に感じると発言する人たちがいるのです。女性党員たちに向けて、スカーフを着用した家の手伝いの女性たちが他政党に投票することにどれほど怒りを感じているかを語り、演台から「世話してもらっている身分で、安定がどうのこうのというなんて」と大声で叫び人たちがいるのです。その発言の後には「私たち(の水準)に近い街区長たちを翻意させることから始めましょう」と述べ、このような(愚かな)考えにもかかわらず、未だに政治の世界で自分たちにチャンスがあるかもしれないと想像する、「活発」で「近代的」で、スカーフをかぶらない、それどころか、スカーフの敵である女性たち。彼女たちであふれかえった共和人民党組織の全てを変える力が、テキンのどこにあるというのでしょうか。85年間の黴臭い権威体制の認識をどのように変えるつもりなのか?悪と闘う漫画の主人公「He-Manヒー・マン」は世界を救ったが、共和人民党を変える仕事は、それ以上にたいへんだ。

というのも、問題は、スカーフではなく、発言権を持つ普通の市民に、その発言権を適切に行使する力はないと考え、彼らの教育や問題意識がその発言権を公使するのに必要な水準にはないという前提、そしてこの前提や、その他の同種の前提の束の上から政治を行う、共和人民党そのものにあるからである。

自分の人生や現代社会に関していかなる主張も持たないスカーフ着用女性や、カプジュ職(アパートの雑用係)にあるその夫を---そのときがきたら掃き出すとしても、今のところ---追い払わず、(彼らを)共和国と世俗主義の永続性に対する脅威と見なさず、「彼」からの票を望み、必要なら襟に(共和人民党の)バッチを付けてあげるメンタリティが、国家主義的・全体主義的体質を厳しく問い、自由・民主主義・諸権利に言及する人々を見た瞬間---この人々は、信仰派、リベラル派、あるいは真の左派のどれでもありえる---、毛を逆立てて警戒態勢に入る理由も、まさにこれである。

すなわち問題は、「無知な大衆が建設的な思考ができないせいで、この社会と国家は遅れたのだ」という立憲革命以来の理解が、子羊の毛皮にくるまった(一見、やさしげな)様子で、「教化できないのなら、我々の傍に引きよせて(羊の群れのように)管理しよう」という形で、示されることである。羊の群れをおうにも、叱りつけるためには、まず彼らを抱擁するような見せかけが必要となる。

チャルシャフ着用者にバッチを付けるバイカルが、彼が6年間に行った「世俗主義が失われつつある」という政治方針のせいで、今日学校に行けず、保護者会から閉め出され、通りで嫌がらせに遭い、政治に参画できず、公的領域に一歩も踏み込めない女性たちのことを知らなかったとは言わないでもらいたい。そもそもスカーフ着用者はほとんどすべての市民権を奪われ、残された権利は投票権だけなのである。(彼らの権利を奪った)バイカルが、最後に残ったその無害な票を望まないとしたら、彼はいったい他のだれから票を望めるだろうか。

実のところ、バイカルが述べた「すべての人を、たとえ信仰派であっても抱擁します」という「民主的」なメッセージが、共和人民党の内外における国家主義的かつ全体主義的な体質に終止符を打つ証拠となるとは、私は思っていない。「私の姉もスカーフ着用者です」と述べることは、スカーフ問題の解決を「スカーフをかぶらせないこと」に求め、問題の解決を問題自体の排除に求める党員たちには、説得的ではないだろう。彼が言っていることは、私たちのすべてはアダムの子孫だ、といっているようなものだからだ。そうではないのだろうか?

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:15175 )