Ertugrul Ozkok コラム:1枚の家族写真―黒衣の祖母とともに
2008年12月02日付 Hurriyet 紙
http://hurarsiv.hurriyet.com.tr/goster/arsivimage.aspx?picid=6900587
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この写真に写っているのは・・・

この写真に写っているのは、私の家族だ。1949年にイズミルで撮ったものらしい。後列の左はしが、私の父のシュクリュ・オズキョク。そのとなりが母のハフィーゼ・オズキョク。そのとなりに叔父のメフメト・ロドプ。前に座っている黒衣(チャルシャフ)の二人のうち、左側が祖母のファトマ・ロドプ。そのとなりは、名前がはっきりと思い出せないのだが、祖母の姉妹。たしか、サードゥカ・ハヌムだろう。たぶん、ギュムルジネ(ギリシャのトラキア地方の町)から遊びにいきていたのだと思う。祖母に抱かれているのは私だ。つまり、一家の3世代の写真である。私以外の全員が、ブルガリアのクルジャアリー郡のメスタンル村で生まれた。

祖母と叔父の名前がロドプで、うちの父や私の名前がオズキョクなのか、奇妙に思われたかもしれない。父は、一族の長男として無事にブルガリアから逃げるために、義理の兄(実の姉の夫)の姓をもらったのだった。

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祖母は生涯、この格好をしていた。10年間、一緒の部屋で寝起きをしていたが、祖母の髪をみたことがない。一日5回、礼拝をしていた。メッカ巡礼を果たしハッジとなった。亡くなったとき、ベッドの下のカバンを開けると、遺体をくるむ5メートルの白布と、清めのための土器製の水瓶、そしてメッカのザムザムの泉の水が一瓶でてきた。

父は、小学校を1年で退学した。しかし、モーリス・シュバリエのフランス語の歌を暗記して歌うような人だった。9才から働いて、母と二人の兄弟の生活を支えた。叔父は、そのお陰で中学校まで行けた。母は、小学校に行けなかった。戸籍への登録が遅れ、小学校の名簿に名前がなかったせいだ。戸籍上の就学年齢になったときには、実際の年は、ずっと大きくなっていた。同い年の友達が学校から帰ってくるのを待って、彼らのアルファベットの教科書を借り、自分で読み書きを学んだ。

母は髪の毛は覆っていない。父と叔父の格好は、当時もっとも流行ったスーツ姿だ。この一家は、叔父を除くと、みな民主党に投票していた。父は、イズミルの見本市でロシア館の前を通るのもいやがるほど、強烈なアンチ・コミュニストだった。それと同じくらいアドナン・メンデレス・シンパだった。

1970年代になると、父と、父がその姓を名乗った義理の兄を除き、家族中がエジェヴィト派になった。私と、末の妹は、1970年代の初めにはトルコ労働党に票を投じていた。この妹は、後に夫となるトゥルグトとトルコ労働党で知り合った。それ以来、一緒にとても幸せに暮らしてくる。その後、家族は増え、嫁や婿が加わった。それに伴い一族の政治地図は、トルコの縮図のようになった。

私は、3代続く共和民主党一家の娘と結婚した。妻のタンスの祖父は、独立法廷の裁判官だった。共和民主党の初代のデニズリ支部長である。妻の父、故ヒュダイ・オラルは、共和民主党のイノニュ内閣で、最年少の閣僚を務めた一人である。私はというと、紆余曲折を経て、亡き父と、トゥルグト・オザル支持で合流するになることになった。

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姉妹たちは、みな、その夫たちと恋愛し、つきあった末に結婚した。子供たちも同様である。祖母が亡くなったあと、一族で髪を覆っている人はいなくなった。しかし、母は1日5回の礼拝を欠かさない。一族から泥棒はでなかった。人殺しも。

父は、「息子よ、ここは私たちの最後の祖国だ。他に行くところはない」と言っていた。トルコ共和国の一員となったことを常に誇りに思っていた。世代を経て、私たちはこの気持ちを、国旗のように引き継いできた。

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この写真と、ささやかな家族史を、(昨今、黒衣やスカーフの女性を党員に受け入れた)共和民主党のデニズ・バイカルを支援するために掲載した。
トルコの何百万という家庭には、これに似た写真があるだろう。
これは、私たちすべてにとっての最大の家族である「トルコ」の、家族の写真である。

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:15275 )