Taha Akyol コラム:ふたたび司法の問題
2008年12月29日付 Milliyet 紙

「またしても」と言おう、なぜなら私は何年もの間、『司法の問題』を話題にして多くの記事を書いた。この問題がまたしても検討課題となっている。
最高裁判所長官のハサン・ゲルチェケル氏は、「しばしば司法が政治化したという批判が集中する」、「司法が国内の緊張を招いている」と言い、次のように述べている。
「いかなる時においても、司法の政治化に反対です。この国は明らかな緊張状態の中にあります。私は最高裁判所をその緊張状態の中に置かないよう努力しています。司法と司法に関係する問題は、論争を避け、また政治化することなく論じられる必要があるのです」(Sabah紙 12月28日付)
『司法の問題』とはつまりこのことなのだ。
故エジェヴィトが1970年代に「司法は共和国イデオロギーの信奉者の手中にある」と宣言したことで端的な表現にまとめられた問題でもある。
司法の『中立性』について、社会に懸念を生じさせる問題である・・・
ゲルチェケル氏は、国の諸組織が「互いの任務や管轄分野に干渉すべきでない」とも警告している。

■司法における両極化?
最高裁判所にとって「中立性」は比較的簡単なことで、ある面ではより機能しやすい。なぜなら最高裁判所は、市民の間での民事的、刑事的な意見の相違を審議するからだ。最高裁判所にとっての問題は、思想や信条の自由のような『政治的な』訴訟で課題となる。
しかしながら行政裁判所の業務は政府の措置を取り消すことであり、憲法裁判所の業務は国会の措置を取り消すことである。訴訟のテーマが『政治的』なため、『政治化』は比較的簡単である。したがってこれらの裁判官は『中立性』に細心の注意を払う必要がある。
ここに問題があるのだ。
行政裁判所は以前からずっと政治化している。より正確にいえば、判決に『政治的見解』が大きな影響力をもつ司法機関という面を見せてきた。この件について多くの判決や学術的批判の例を私は挙げることができる。
司法に携わる人々の間で組織される裁判官・検事協会(YARSAV)という協会は、彼らの考えに基づいて行政裁判所で訴訟を起こしたことがある。もちろん提訴は可能だったのだが・・。しかし、裁判資料を精査する訴訟法廷委員会の委員を務める行政裁判所裁判官の11人が、裁判官・検事協会のメンバーだった!判決も、裁判官・検事協会の要求する方向で出された。しかし憲法裁判所はこれを棄却したのだった。
この種の光景の増加は、司法に対する信用を一層傷つける。
司法における異なる視点は、1970年代の警察のポルデル(左派思想をもつ警官による協会)とポルビル(ファシスト思想をもつ警官の団体)のように、両極化の道を開くことになるなら、大きな災いとなるだろう!

■憲法裁判所
憲法裁判所に至っては、判決が『ケマリストのイデオロギー』の影響下にあることを、今となっては法律学者たちも口にしている。
最後に、裁判それ自体から生じてくる両極化の様相は、より一層懸念を与えるものである。
憲法裁判所は、町の自治体が『2008年3月22日』から60日で裁判を起こすことができると結審した。行政裁判所はこの決定に従わず、『12月6日』という新たな日付を設定した。
ハシム・クルチ憲法裁判所長官は、同裁判所の決定を擁護したが、これに対しオスマン・パクスュト憲法裁判所長副長官を代表とするグループはハシム・クルチ憲法裁判所長官を糾弾した!
しかしこのグループは『2008年3月22日』と『12月6日』の期日のどちらが有効なのか、(また)どちらの決定が結論に導かれるものなのか、まったく言及していない!彼らがこの基本的な法的問題にまったく触れていないため、『グループに分かれる』という光景が生じたのだ!
もちろん裁判官たちが異なる法的見解をもつことはある。しかしこの見解の相違が、『法的な見解の違い』を超えて、政治的姿勢や、両極化、ましてや司法における組織化の光景を生じさせるのであれば、国家の基盤である司法への敬意や信用が完全に揺らぐだろう!
ぜひ気をつけてほしい。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:15438 )