俳優オルゲルの「キプロスで10人殺した」発言、キプロス・ギリシャに衝撃
2009年01月24日付 Hurriyet 紙

俳優のアッティラ・オルガチが、キプロス平和維持活動の際に、手を縛られたギリシャ兵捕虜の頭を銃で撃ったという発言は、トルコに続いてギリシャと、キプロス・ギリシャ系住民管理地域(南キプロス)をも混乱させた。反応の大きさにオルガチは、文書で「あの時は、脚色して述べたのだ」と説明した。
映画「イラク―狼の谷―」のクルチュ役で知られる45年のキャリアをもつ映画人、アッティラ・オルガチが、カナルチュルクで放映された「そこで何が起こっているのか」という番組で、1974年のキプロス平和維持活動において、19歳のギリシャ兵捕虜の頭を撃ち、このほか9人をさらに殺害したと爆弾発言をした。

コラムニストらは、「捕虜の殺害は戦争犯罪で、これは懲役刑にあたる」と論評する一方で、アッティラ・オルガチは翌日ラディカル紙にコメントを送り、「君を侮辱したものに君は何ができるというのか、これが戦争だ。我々に彼を捕まえて連れて行くような余裕はない」と述べて、自らの発言を後押ししたことで、反発が大きくなった。

ギリシャと南キプロス・ギリシャ系住民管理地域のテレビ局を始めとして、多くのテレビ局はアッティラ・オルガチがこの発言を行った番組映像を求めた。しかし、カナルチュルク側に、「映像を提供しないように」という命令があり、そして局はこの命令にしたがい、どこにも映像を提供しないことが分かった。

■ギリシャ人:ショックを受けた
アッティラ・オルガチの発言は、アテナとレフコーシャで衝撃を引き起こした。ギリシャ政府はオルガチの発言を調査、検討したのち必要なあらゆる措置を取ると表明した。ギリシャ政府報道官、ステファノス・ステファヌは、「我々はショックを受けた。トルコ人の俳優が1974年の出来事の野蛮さと残忍性を明らかにした。さらに、トルコが国際法と、とりわけ人権においてジュネーヴ条約を無視していたことを証明した」と述べた。

オルガチがギリシャ人捕虜殺害に関して語ったことは、ギリシャ側の訴えで人権裁判所により出された決定をトルコが履行する義務があるということを再確認させることになったと述べたステファヌは、「それ以前に行われた殺人についても、ある証人の証言があった。しかし、いま初めてこの悲劇に関与した者の告白が出てきた」と語った。

■歴史的証拠
ギリシャ政府の元検察長官、アレコス・マルキディスは、「いわゆる歴史的証拠である。初めて、ひとりの人が犯した殺人に対し罪を犯したと告白している」と述べた。マルキディスは、オルガチが良心の呵責により、さらなる発言を行うだろうこと、それどころかギリシャ兵らの名前すらも明らかにする可能性があるとした。ギリシャ外務省報道官のヨルゴス・クムチャコスは、オルガチについて、「ショッキングな告白だ。しかし今になっての告白であるが、これは周知の事実である。キプロスへの国際法を無視したトルコの侵略の際、国際法と人権法が踏みにじられたことは周知の事実である。ヨーロッパ人権裁判所の決定は履行されるべきであり、トルコは侵略時のすべての不透明な事件が明らかにされるために協力しなければならない」と述べた。

■現実とは関係ない
昨日、電話を切ったあと、沈黙を続けていたオルガチは、午後、メディア機関に声明文を送り、あの時は脚色をして話したと述べた。オルガチは、「1月22日に放映された『そこで何が起こっているのか』という番組で私が語った『捕虜を一人、そして10人を殺した』という発言は、完全に戦争の酷い状況、冷酷さ、野蛮さを、人々に衝撃的に説明するために私が書いた脚本です。これらすべてが脚色されたものであると説明しようと思っていたら、コマーシャルが流れ、番組が終わってしまいました。現実とは無関係です。皆さんご承知ください」と説明した。

■台所でじゃがいもを剥いた
東地中海大学の教員ヒルミ・オゼンは、自分はアッティラ・オルガチが嘘をついていることの生き証人であると述べた。
北キプロス・トルコ共和国の元大統領ラウフ・デンクタシの顧問でもあったヒルミ・オゼンは、ヒュッリイェト紙に行った説明で、「彼は戦争をとても恐れていた。戦闘に参加したなんてとんでもない、手に武器すら持たせてもらえなかった。また、1974年8月、最初の軍事行動が行われたばかりの頃、レフコーシャにあるキプロス・トルコ連隊で兵役についていた。この連隊は軍事行動の間、一度も戦闘に加わっていない、ただその地域を守っていただけだ」と述べた。ヒルミ・オゼンは、アッティラ・オルガチがどんなコネを使って炊事班配属になったかについて、次のように語った。「1974年7月20日、キプロス平和維持活動が始まったとき、私はキプロス国立劇場の監督だった。8月にアッティラ・オルガチの家族が私に電話をかけてきて、アッティラが1963年協定により配置されたレフコーシャ駐留キプロス・トルコ連隊で兵役についていること、そしてとても恐れていると話し、私に援助を求めた。アッティラは島に来たばかりだった。私は連隊に行って、司令官らと会った。司令官は私に、アッティラが怖がっており、神経衰弱状態にあると言った。当直勤務も務められなかった、つまり彼は武器を手に取ることすらしなかったのだ。私はお願いし、彼を注視してくれるよう頼んだ。彼らは私の要求を退けず、彼を炊事班に配属した。20日後にはトルコに送還したのだ」

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( 翻訳者:林奈緖子 )
( 記事ID:15647 )