Ismet Berkan コラム:「穏健なイスラーム」が我々に及ぼした困難
2009年04月08日付 Radikal 紙

合衆国政府で職に就く人がくしゃみをすると、トルコの全システムが風邪をひく。状況はまさにこうである。コリン・パウエル氏は、2004年にアメリカの国務大臣としてトルコに対し「穏健なイスラーム」と言及した。この他愛のないと思われる発言の対価を、我々は、クーデターの企てによって、今日のエルゲネコン捜査によって、これらすべてが我々の民主的システム上につけた傷によって支払ったし、おそらくさらに支払うことになるだろう。

長年の陰謀論や「大中東プロジェクトの共同リーダー」という談義などには触れないつもりだ。アメリカの1大臣が文中で言及した2語からなる定義付けが一体どうして、我々の世論やオピニオン・リーダーたちの議論でこれほど影響力を有するかということも、私としては真剣に研究される価値がある問題である。しかし、それも述べないつもりだ。

ただ、当時国内が置かれていた総体的状況と「穏健なイスラーム」という言葉がどの枠組みでトルコに影響を及ぼしたのかという点に触れることにする。

2002年末に公正発展党(AKP)が選挙に勝ち単独政権になった際、まだ議員ですらなかったレジェプ・タイイプ・エルドアン氏は、ジョージ・W・ブッシュ米大統領と会談した。

トルコで、後にかなりの部分がエルゲネコン捜査対象とされることになるグループは、これを「清廉な政党(Ak Parti)」がアメリカによって支援されたと認識した。トルコで初めて「穏健なイスラーム」ということが、その頃に語られ始めた。

おそらくは単にこの理由で、つまりアメリカと公正発展党の関係を壊す目的で、2003年3月には、イラク占領のためにアメリカに加担することが予測された[米軍のトルコ軍基地利用に関する]法案を拒否する方向で、最後まで様々な試みが示されたのだ。例えば、空港の外の安全にすら関与する国家安全保障評議会(MGK)は、この法案に関するいかなる決定も行わなかった。ある軍司令官は、最終の声明によって法案に反対であると語った、などだ。

アメリカ政府は、[基地利用]法案の拒否をトルコ政府の過失としてではなく、逆にトルコ軍の過失と見なした。当時の国防副長官だったポール・ウォルフォウィッツ氏は、ジェンギズ・チャンダル氏とメフメト・アリ・ビランド氏によるインタヴューで公言すらした。

トルコ内部で「穏健なイスラーム」テーゼは効力を発揮し続けた。この論によるとアメリカには計画があり、この計画に従って、トルコは「穏健なイスラーム国家」となり、そうして「穏健ではない」イスラーム国家に対する模範となる予定であった。このために、まずは「共和国が手にしているもの」とアタテュルクの原則が棚上げされることが必要であった。そして、公正発展党はこれをやっていたのだ!

2004年にコリン・パウエル氏が「穏健なイスラーム」とうっかり口にし、トルコは混乱した。例えば、当時のアフメト・ネジュデト・セゼル大統領はこの発言に対し非常に厳しい返答をした。「ここはイスラーム国ではありません。ここは世俗的で民主的な法治国家です」と述べた。その間に、軍内部でクーデターの企ても起き、進められていたのだ、実のところ。

それとともに反米主義も起き、進展した。以前の左派と、以前からナショナリストであった人々が「赤リンゴ連合」において結束した。目的は「アメリカ帝国主義」を止めることだった。そのために公正発展党も止められなくてはならなかった。EU[加盟]プロジェクトも妨げられなくてはならなかった。
幾つかの暗殺がこの動機で行われた。様々なテロ活動がこの動機でなされ、し向けられた。[2007年の]共和国ミーティングの根拠もこれであった。

さて、現在何がおきているのだろうか?アメリカはもはや「穏健なイスラーム」とは述べていない。さらには、全く反対の「世俗的な民主主義」と「司法の優越性」に言及し、このモデルを通じて協力[関係]が確立される必要性を語っている。

エルゲネコンの関係者は、アメリカが発言を変え、まさに彼らが護持してきた事を語り始めたことを喜んでいるのだろうか?あるいは、自分たちと同じ事を語り始めたとしても、アメリカに対する不信感は続くのだろうか?

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現実との結びつきが切れ、多種多様なシナリオや風評、あるいは夢想したフィクションを求めて一生を浪費することは、困難で徒労であるに違いない…。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:16177 )