38年後、夫の墓の傍らに
2009年04月26日付 Milliyet 紙

ドイツで死去したシリン・ヤズジュオール・ジェムギルさんは、1968年世代の重要な人物の一人であり、1971年の衝突で命を落とした夫のシナン・ジェムギルさんの傍らに埋葬された。

ドイツで腸閉塞に伴う中毒症状と診断され、病院に搬送されたのちに死去した、1968年世代の重要人物の一人であるシナン・ジェムギル氏の妻、シリン・ヤズジュオール・ジェムギルさんは、昨日(25日)にイスタンブルで埋葬された。
シリン・ジェムギルさんが、フラント・ディンクさんの妻であるラケル・ディンクさんに宛てた「私の最愛の人を1971年に撃った手と、あなたの最愛の人を2007年に撃った人の手を、私はとてもよく知っている」という言葉で始まる手紙の朗読は、告別式に参列した人々の心を打った。

■思い出を書き残していた
革命運動の指導者の一人であるシナン・ジェムギル氏の妻、シリン・ジェムギルさんの告別式は、カラジャ・アフメト・ジェム文化会館で執り行われた。式で挨拶を行った息子のタイラン・ジェムギルさんは、9月12日の軍事クーデターの後、母とは別れて暮らしたと延べ、以下の様に話した。「何年もの間、手紙のやり取りをしました。傍にいないにも関わらず、とてもよい母でした。母のおかげでこれまでやってくることが出来ました。母には独特な態度と姿勢がありました。何事に対しても決して妥協しませんでした。ドイツで生活していたにも関わらず、祖国の政治的問題を、みなさんと同じように、母も心配していました。しかし、母は希望に満ちていました。いつかわれわれがどん底まで落ち込むであろうこと、そしてどん底まで落ちた後に、忽然と再起するだろうと考えていたのです」

■デニズさんもここにいたならば・・
母の死後20分が経過した後に、ドイツにある病院に駆けつけることができたことを明らかにしたタイラン・ジェムギルさんは、「最期は思い出を書き残していたようです。書き残したものを受け取りました。そのときこの本を完成させることを約束しました。」と話した。デニズ・ゲズミッシさんの兄であるボラ・ゲズミッシさんも、「デニズがここいたら、友人を見送ることができたのに。私もデニズ・ゲズミッシの名に、そして68年世代に哀悼の意を表します」と述べた。トルコ革命家青年協会連盟(Türkiye Devrimci Gençlik Dernekleri Federasyonu)の前理事長であるエルトゥールル・キュルクチュ氏も、シリン・ジェムギルさんのために、「誰にも縛られず、独自の人生を送った一人の革命家であった」という言葉を送った。
自由団結党(ÖDP)のイスタンブル県選出国会議員であるウフク・ウラス氏は、68年世代の最も重要な人物たちが、一人、また一人と失われていると述べ、以下の様に話した。「若い人々には68年世代を風化させないよう出来る限りのことをしてもらいたい」

■ラケル・ディンクさんへの手紙
告別式ではまた、シリン・ジェムギルさんが2007年の2月6日にドイツからフラント・ディンクさんの妻であるラケル・ディンクさんに宛てた手紙が朗読された。シリン・ジェムギルさんが、手紙の中で、「あなたのお手紙をここに届いたある新聞の紙面で泣きながら読みました。(そして)あなたに手紙を書くことに決めました。あなたのことを存じ上げなくとも、あなたとお子さんたちを胸に抱きしめています」と書いたことや、「私の最愛の人を1971年に撃った人の手と、あなたの最愛の人を2007年に撃った人の手を私はとてもよく知っています」という言葉で始まる手紙は、式に参列した人々の心に響いた。
ジェムエヴィでの告別式の後、参列者たちは、「革命の犠牲者たちは永遠である」や「革命万歳、社会主義万歳」といったスローガンを唱えながら墓地まで行進した。そしてシリン・ジェムギルさんの遺体を、1971年に起こった衝突の結果、命を落とした夫のシナン・ジェムギル氏の傍らに埋葬した。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:16298 )