Derya Sazakコラム:「壁の崩壊」―歴史に残るタクスィム広場5.1, 2009
2009年05月02日付 Milliyet 紙

あるタブーがついに崩れ去った!1977年5月1日の労働者虐殺事件から32年が過ぎ、「適切な数の」労働組合、政党、市民グループ組織代表らが「労働者の祭典」を苦い思いではあるがタクスィム広場で祝った。

パンガルトに集まった行列が、革命的労働者組合連合(DISK)、 公務員組合連盟(KESK)、共和人民党(CHP)、トルコ共産党(TKP)などの旗を振りながらタクスィム広場へやってきたとき、歴史は再度書きかえられたようだった。民主主義の高揚がクーデターにより阻まれたこの国で失われた価値への回帰は、その度ごとに大きな対価を要している。トルコで1977年5月1日に覆いかぶされた「恐怖の壁」が乗り越えられ自由に祝うことが出来れば、理を弁えた大半の者が警察のバリケードの間を縫ってタクスィム広場にたどり着くのは、1989年のベルリンを連想させるようなことではなかった。

旗を手にタクスィムの記念碑を包んだ群集の勢いは「冷戦」を終わらせたベルリンを思い起こさせるものであった。トルコ独立戦争時期のアンカラで1922年には祝われていた5月1日だが、1930年代以降は支配階級による反左翼政策の重要なシンボルのひとつになった。

禁止されたのだ。

1960年代には産業化と労働運動の力が強まり、左派の潮流は68年革命とともに5月1日(を祝福すること)へ戻りだした。DISKが大衆的な意味を勝ち得た1977年の5月1日はもっともすばらしい日だった。

しかし大衆に向けられた銃火の結果、最低でも30万人が集まっていたとされるタクスィム広場ではパニックが起こり、36人が命を落とすことになった。「血の5月1日」として歴史に名を残した事件から32年が経ち、DISKとKESKが先頭に立って、5月1日が、昨日「適切な数の」参加者を伴ってタクスィムで祝われた。

1977年のタクスィムを経験したパレスチナ出身の労働組合員の、昨日(5月1日)の本紙に載った言葉は、経験された痛みがいかに無理に忘れられようとしてきたかの良い例である。

「私にとって1977年5月1日は大虐殺の日でした。わたしはパレスチナ人ということもあり多くの虐殺を見てきましたが、ここでの出来事とはまったく別ものでした。祝うために集まった労働者に銃口を向けるのは恥ずべきではありませんか。あの瞬間は生涯決して忘れられないでしょう。本当に衝撃を受けました。多くの人間が死んで、誰が悪いのかわからなかったと言われています。今回トルコへ来てすぐに昨夜、スレイマン・チェレビーとタクスィム広場を訪れ、あの日を、犠牲になった労働者を偲びました。しかし私がそこで見たのです。広場は信じられないほどの人で溢れ、以前とはまったく変わっていました。『どうしたんだ。1977年の5月1日よりもここが混雑しているなんて』と言ってしまいました。」

パレスチナ人の労働者の見たものは現実的なものだった。

知事や県警がタクスィムを包囲し「5月1日シンドローム」を起さなければメーデーはふつうなものになるだろう。暮らしが普段どおりに戻るはずだ。

労働者が5月1日を祝うとき、イスタンブルの人々も春の高なりを感じるようになるだろう。

アメリカ合衆国ではニューヨークの観光地でもある5番通りの交通が封鎖されメーデーが祝われる。イギリスではトラファルガー広場やオックスフォード通り、ハイドパークでデモが行なわれない日はない。

一方我々は、タクスィムを5月1日まで閉鎖すると、その周囲を戦場に変えている。石が投げられ、ガラス窓が割られ、ガス弾発砲の下で祭りを祝えるのか?

とはいえ、今年は落ち着いたものだった。
壁はもうない。労働者はタクスィムへ到った。

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( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:16346 )