チャンクルで共和国初期の製粉工場、解体
2009年08月01日付 Hurriyet 紙


その製粉工場は、ジュムフリイェト地区に設けられ、面した通りに「工場通り」という名称を与えた。当時は市の郊外に建っていたが、時代とともに都市が大きくなるにつれ、市の中心部となってしまい地価が高騰した。1980年代末期に所有者が変わってからも暫く生産を続けたが、2代目のオーナーであるハミト・テキン氏が亡くなったことにより、工場は操業をストップした。

利益関係者らの意見の不一致が原因となり工場は解体されることとなり、また工場跡地はビジネス街になることが決定した。15日ほど前、15メートルの高さをもつ工場の解体作業がスタート。当時の建築環境を考えるとかなり頑丈に造られたとみられる工場の建物は、解体にあたって解体業者を困らせたが、作業は現場周囲のアパートの安全を考え非常に慎重に進行された。そして周囲が懸念する中で工場の建物は撤去された。

■操業開始は1928年

チャンクルとその周辺地域で起こった1920年代の水不足は、水車を動力としていた製粉業のオーナー、イスマイル・ズィンジルオール氏を模索に向け、1924年にハンガリーの技術者ジョセフ・レンギイェルをチャンクルに呼びよせ、製粉工場の建造が始まった。当時の厳しい環境のなかで、かなりの苦難とともに工場は1928年に操業を開始。アンカラをはじめとする黒海周辺の各県の小麦需要はこの工場によって支えられることとなった。

度重なる技術革新により高品質の小麦を生産するズィンジルオール製粉工場だが、オザル政権による推進政策で新しい製粉工場が次々と建てられてからは、品質に妥協を許さなかったあまり競争力を失ってしまう。そしてオーナー、ズィンジルオール氏の一家によってハミト・テキンという名の実業家に手渡された。その後施設は15年ほど生産を続けたが、2年前にオーナーが亡くなり、遺産相続人の工場を(新たな)用地として利用したいという希望によって受託業者に受け渡された。そうして81年間の歴史的建造物は撤去された。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:17087 )