İsmet Berkanコラム:エルドアン首相、「クルド問題」で歴史的演説
2009年08月12日付 Radikal 紙

昨日(11日)の公正発展党会派会議でのレジェプ・タイイプ・エルドアン首相の演説は、多くの点から歴史に残る発言だった。

第一に、わずか10年程前まではこの演説の一部と同し内容を、書いたり発言した人は裁判に訴えられ、その多くが「テロ組織への援助」であるとして、投獄されてた。今日、わが国の首相が同じ発言をしたのである。

第二に、PKKとの戦闘で殉職した兵士の遺族や、PKKに加わった息子を山岳部での戦闘で亡くした遺族に対しての共感が示されたことは、トルコ政治の歴史上、ほとんど例のないことである。

第三に、私には、発言それ自体が「クルド問題解決策」であるように思える。私たちのクルド人同胞は、国の責任者からこのような発言を求め、対等な人間としてあつかわれていると実感することを求めているのである。

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首相の発言を少々引用してみる。

「私たちは、もはや、この問いを問わずにはいられない、しかも大きな声で堂々と。もしもトルコが、そのエネルギーや予算、国家の収入を、それらにも増して、平和を、安寧を、若芽のような若者を、テロの犠牲者にしてこなかったら、またトルコが、テロや衝突、戒厳令、未解決の殺人事件、強制移住させられた村、トルコの月星旗に覆われた犠牲者の棺を目にし続けることで、この25年間を無駄にしてなかったら、今日トルコはどうなっていただろうか。

もし問題がはじめに出現したときに問題に気付き、必要な対処がなされてたのなら、あるいは、問題が大きくなる前に対応されていたならば、何万の死者、何万の負傷者、何十万の犠牲者が出る前に、この問題が首尾良く解決されていたのならば、今日トルコはどうなっていただろうか。

この問いの数を増やし、自分自身に問うてもらいたい。国民全体で問いたい。何が起こったのか、どこで過ちを犯したのか。どこで誤った政策が適用されたか、どこで誤った態度が示されたのか。」

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この発言は、面前にある問題を、―それを、「テロ問題」と呼んでも、「南東アナトリア問題」と呼んでも、あるいは「クルド人問題」と呼んでもかまわないが―、単なるテロ問題と考えるのは誤りであることが、私の知る限り、はじめて公的な立場から明確に述べられたことを意味している。

首相のこの発言の背景を考察するならば、背後にある論理が、テロを「原因 NEDEN」ではなく「結果SONUÇ」とする考えから出発していることがわかる。
そして、テロは原因ではなく、結果であるという考えは正しい。

今日までテロを根絶しようと努力する一方で、テロの原因に向き合うことを、我々はことごとく拒否してきた。今、おそらく初めて、私たちは、政府レベルでこの原因に取り組み、これらを取り除く入り口に立っているかもしれないのだ。

更にもう一つ引用を。

「子供の死よりも大きな悲痛はない。神よ、この苦しみを誰にも味あわせませぬよう。どの家族にも、このような辛い思いをさせませぬよう。ここ25年間、トルコの東部で、西部で、北部で、南部で、母親たちは、どんな気持ちで電話の受話器をとったことか。受話器に手を伸ばすとき、恋しい息子の声を聞く喜びと、殉職の知らせを聞く絶望の、深い乖離の淵にたたされていたのだ。私はその瞬間を、ある家庭で自ら体験したことがる。

『その前の晩、息子が電話してきました。息子は「お母さん、私たちは今、(前線にむけ)出発し、進んでいます。どうか祈っていてください、でも死ぬことは恐れません」と言いました。24時間後、息子が死亡したという連絡を受けました。』

死んだ子の胸ポケットにあったというお守りを見せられて、私はとても大きな衝撃を受けた。この悲しみにどんな母親が耐えられるというのか。この悲しみに心臓の耐える母親はいないだろう。『私が育て、養い、兵士にした。そして、行き、帰ってはこなかった。いったい、どうすれば・・』と、悲痛な声をあげる母親に、どんな言葉も慰めになることはない。約30年間、多くの母親は電話の前で、(アナトリアの)アウル山、ムンズル山、クディ山、エルジエス山、カチカル山のように、その場で立ちすくんできたのだ。多くの父親が洪水のように涙を流してきたのだ。」

この言葉に込められた気持ち、温情に、共感することが出来るのであれば、あなたは正しい場所にいると私は思う。

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( 翻訳者:三村麻衣 )
( 記事ID:17172 )