Taha Akyol コラム:オジャランの「解決案」は、解決案か
2009年08月18日付 Milliyet 紙

果たしてオジャランは、テロを終わらせることに賛成なのだろうか?
昨日のいくつかの新聞の見出しを見てこう考えさせられた。Milliyet紙はより現実的に論評することで、オジャランの「クルド人は防衛力を有するべきだ!」という言葉を見出しにすえた。
実際、オジャランは、PKK(クルド労働者党)の非武装化はさて置いて、「防衛力」という形での武装化が承認されることを望んでいるのだ!
しかしながら10年前、彼は弁護士を通して次のような声明をだしている。
「トルコにおける衝突とテロの状態は、人権や民主主義の発展の前に障害を成している。このため私は、1999年9月1日をもって武力闘争を終結させ、武力を平和のため国境の外へ撤収させるようPKKに呼びかけている」(1999年8月4日付、Milliyet紙)
その後の10年間でトルコの民主化は大いに進んだ。最近は「国家政策」としての「(クルド問題)解決案」が話題になっている。しかしオジャランは状況を解決に向けようとせず、むしろPKKを「クルド人の防衛力」としていわば「第二の軍隊」とすることを要求するなど、解決案のプロセスを困難にするようなネガティブな姿勢を取っている。

■オジャランは「分離」を望んでいる!

オジャランは声明において「連邦体制は望まない」とも言っているが、彼は「連邦を超えた」民族的な構図を望んでいるのだ。
「アメリカがバルザーニに与えたような連邦体制を私に向けても、承諾しない。私の解決策はそれを超えている。ヨーロッパのそれよりもさらに成熟したものだ。ヨーロッパ・モデルは完全に民主的ではない!」
PKKのような全体主義のテロ集団が、なんとヨーロッパに民主主義を説いている!
さあ、信じてくれ
DTP(民主市民党)による2007年10月31日付の議会宣言書においても、国家に外交、防衛、財政だけを任せて、他の政府組織や任務は全て地方分権化することが提案されており、「この体制は、連邦主義や民族に基づく自治を意味するものではない」との言葉が続いている。
オジャランも「連邦制は望まない」としているが、「防衛力」あるいは「クルド人が自らの宗教的組織を設立すること」すなわちある種の「クルド教団」の創立といったような発言により、民族に基づいた分離を堂々と主張しているのだ。
トルコ人はアザーン(礼拝の時刻を告げる呼びかけ)や礼拝において「アッラーフ・エクベル(アッラーは偉大なり)」と言うが、クルド人は別のことを言うつもりなのか。
これらは間違いなく、民族主義、民族分離への道を示している。
かくしてトルコは「クルド問題解決案」を断念せねばならず、それどころか「難化案」でも講じるべきなのか。

■解決案の続行を!

オジャランは、自らをイエスやレーニンよりも格上に見ているような精神の持ち主だ。最新の発表での「このプロセスにおいて道が開かれるために、共に進めてゆくためには、条件を整えることが必要だ」という彼の発言は、彼が何に注視しているかを指し示している。彼との「非公式」の話し合いが設けられているなら、あるいはこの先設けられるなら、ハードルを高めるねらいで行き過ぎた発言をしたとも考えられる。彼はこの先のプロセスにおいて(次第では)「テロを扇動することもありうるし、「武力闘争をやめろ!」と言うこともありうる。政府はこの問題に熟練した対応をせねばならない。今日のMilliyet紙でヒルミ・オズキョク氏が書いている「プロセスを成功へと導いてくれる最大のものは、(クルド人)組織が山から下りることである」という言葉は、極めて重要なものだ。
組織の姿勢がどうであれ、「解決案」は続行されるべきである。アフメト・チュルク氏の次の言葉に注目しよう。
「我々は、民族主義がどれほど危険であるかを知っている。千年の間共に暮らしてきた2つの民が分離することは、双方にとって害である。また中東において民族や宗派の対立がいかに被害を及ぼしているかも、我々は目の当たりにしている。」(8月15日Hülliyet紙)
民衆の中には、このように理論的に考えているクルド人が過激派クルド人よりも多いはずだ。「解決案」は、時代の良心が必要としているのと同様、何百万人もの国民を単一のトルコ共和国の国民であることに満足させ、民族的(主張の)行き過ぎの基礎となるものを制限するためにも必要なのである。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:川原田喜子 )
( 記事ID:17225 )