Ali Bulacコラム:アイドゥン・ドアンへの記録的課税問題に関する見解
2009年09月25日付 Zaman 紙

時として、コラムニストという職を遂行するのはとても難しい。真に公正で道徳的で、自由な世界のために闘うこと以外には興味がない人間にとってはさらに難しい。私はアイドゥン・ドアン氏(注)に課された記録的追徴課税を批判したために、保守‐右翼層から理解しがたい醜悪な攻撃を受けている。

(訳者注)ドアン・メディア・グループの総主。ドアングループは、ミッリイェト紙、ヒュッリイェト紙、ラディカル紙などを所有する。

私はアイドゥン・ドアン氏を個人としてでなく、トルコの政治的、社会文化的環境のなかで、彼が占めている立場に関し、(彼が示す)3つの姿勢のために彼を批評する者の一人である。
1)概して、ドアン・メディアは宗教、宗教的生活に対して攻撃的態度をとり、世俗化を「世俗主義者」として養護している。
2)ドアン・メディアは宗教共同体に対して魔女狩りを行っており、伝統的な道徳を軽んじ、人々のプライベートを悩ませており、一種の密告者の機能を果たしている。
3)わが国の不平等な構造のなかでドアン氏は、中央官僚の側にたっている。

ミッリイェト紙は、3ヶ月前に私を大きな見出しをつけた記事で2日にわたり攻撃した。(我がザマン紙編集長エクレム・ドゥマンルと他の記者仲間が私を庇ってくれた。彼らに感謝する。)つまり私もドアン・メディアの被害者なのだ。

しかし、たとえそうであっても我々は「正義」を守らなければならない。

アイドゥン・ドアン氏は脱税したのだろうか?あり得ることだ。しかし、3つの点で納得いかない。
a)なぜもっと前に調べられなかったのか?
b)同じやり方で脱税したかもしれない同様の組織はなぜ調査されないのか?
c)罰金が次々と出され、記録的な額に達している。額をあるとこまで持っていこうとしてるかのようだ。

これも、ドアン・メディアに関して「特別な処置がとられている」という疑いを起こさせる。すなわち、
1)トルコでは「グローバル・プロジェクト」が実行されている。「政治、資本家、官僚」の側にたつメディアを根本的に変えようと意図されている。ドアン・メディアはこの変化にあるところで抵抗している。これについては以前書いた。(参照.ザマン紙 Fasıl、2009年2月25日)
2)一部の人々は、この様々な政治的思惑を利用してドアン氏を困窮させ、圧力をかけようとしている。
3)ドアン・メディアは、政治的思惑はともかく、真の社会的、文化的変化を正しく理解できず、政治批判を時代錯誤な指標に基づき行っている。

罰金は、システムの構造をどう理解し、どう運用するかに関わって発生する。世界、そして我が国において、現代的国家は、社会と政府を背後から「法律、教育、経済」を通して操っている。新しい時代においては軍部は後退し、この3つのファクターに「メディア」が加えられた。

トルコにおいて特に刑法と税法は地雷原のようなものである。皆さんは何年もその地雷原で暮らしていて何もないこともあるだろう。しかし、ある日あなたが「権力」の気に障ることをすると、遠隔操作で地雷が爆発させられる。このシステムは、個人や、私企業、さらには公的なある機関が犯罪を犯すという前提で組み立てられている。目的は、安全を守るために最後の手綱を国家がもっていよう、ということである。アメリカでは1920年代にアル・カポネが禁酒法をかいくぐっていた。裁判では彼の罪は確定しなかったが、税によって国家は彼を破滅させた。裁判の手続きが正しいものではないため、罰金は公正ではなかった。

ドアン氏に与えられた罰金も同様だ。もちろん調査官は独立している、しかし司法のように「中立」だろうか?政治的な思惑により、仕事をしてはいないだろうか?

現状においてドアン氏に課せられた罰は「政治的」である。あたかも憲法裁判所が、最高裁判所が、行政裁判所が、政府に対して始めた裁判や、不利に下した判決のように。

過去に(例えば[1998年]2月28日)、同じやり方で、信心深い人々への弾圧が行われた。「緑の(イスラム系)資本だ」という理由で-彼らの瑕疵もあったが-イミパシュ、コンバッサンなどの企業に不公平な課税が行われた。オーナーがあご髭を生やしていたキョフテ屋すら嫌がらせを受けた。今日、ドアン氏に与えられた罰は、過去に信心深い者に与えられたものと同じであったが、明日になれば立場がかわる、彼らの踏んだ所で地雷が爆発させられる。

私はドアンの弁護士ではない。しかし、私は、
1)「ある集団への悪意ゆえに、不正義をおこなってはならない」という原則に立つ。
2)「ああ、まったく、やつらのせいでひどい目にあった」という人たちは、問題が、刑罰の実施そのものにあるわけではないことを理解せねばならない。
3)税法が政治的刑罰に適用されれば、表現の自由と政権批判の権利が侵害される。
4)なされるべきことは、システムを公正なもととすることと、政権構造を問い直すことである。たとえ第2代正統カリフのウマルでも、曲がった定規では真直ぐな線は引けない。このシステムからも公正は生まれない。このシステムは清らかな魂までも汚す。これが私の批判だ。

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( 翻訳者:林奈緒子 )
( 記事ID:17533 )