Ismet Berkanコラム:新聞は政党ではない
2009年09月29日付 Radikal 紙

そう、新聞は政党ではない。しかしこの国では特に一部の読者が、新聞やそのコラムニストに政党のように振る舞うことを期待し、その期待の先で新聞やコラムニストに最近の流行語で言うところの「隣人への圧力」を重ね合わせる。
むろん、新聞には広い意味での政治的偏向が存在する。この偏向は新聞のアイデンティティーの切り離すことができない一部である。しかし、新聞が政治的偏向を持ち、その偏向が、国の政党が煽ることで一つの政党と一体化するとしても、新聞を政党にしてはいけないし、すべきではない。なぜなら新聞は何よりもまず新聞である。ニュースを伝えるものである。ニュースをねじ曲げることなく報道し、その政治的内容や報道により生じる政治的結果によって(伝えるべき)ニュースを選ばないのが新聞である。 また(新聞とは)伝えるニュースが、新聞報道の普遍的原則に沿った形で、「公正」であるためにたたかうものだ。

ここまで述べたことはあくまでも原則であり、心からの願いであり、実現されるべきことである。現実はこうした原則とはかなりかけ離れている。読み書きができて新聞を買っている者ならみな、そのことは知っている。
我が国の新聞は多かれ少なかれ、ある程度は政党のように振る舞っている。「反対」したり、あるいは真逆に「政府を支持」したりしているのだ。批判的であることと反対することの間に大きな境界線が存在するのと同様、正しい者であろうとすることと、(再び流行語で)「支持者」となることの間にも大きな境界線がある。
残念ながら我が国では、これらの線が極めてわかりにくい状態にある。おおっぴらに政府に反対するものの、その反対をきちんと確固たる根拠に、証拠に結び付ける必要性すら考えない新聞やコラムニストが存在している。しかし彼らは「批判的ジャーナリズム」を行っていることになっている。私の意見では、彼らのしていることとジャーナリズムとの関係性は極めて限られている。むろんその反対もある。おおっぴらに政権を支持し、支持を盲目的に展開する報道機関も存在している。そして彼らを問い詰めても、「客観的報道」を行っていると言うのだ。彼らのしていることは、もはやジャーナリズムとは何の関係もない。
残念ながらこれらはある種の病気であり、この病気は長い間ずっと我が国の新聞に存在している。この病気のせいで、社会の日々の生活における政治の位置ははっきりしているのに、新聞は政治のための(政略的)ニュースやコラムから卒業できていない。新聞やコラムニストがこのように政治と深く関わることは、新聞の読者をも、日々の生活で政治に多く関わっている人々や政党の熱烈な支持者に限定させてしまう。
新聞の売り上げが年々相対的に増えていないことを分析する際も、おそらく私の述べたことを考慮するべきだろう。政治に強い関心を持つ読者の気分を害することなく、新聞における、政略の分量を減らし、新たな読者を獲得することは、果たして可能なのだろうか。

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( 翻訳者:川原田喜子 )
( 記事ID:17559 )