ERGİN YILDIZOĞLU コラム:Blut(血=エスニシティ) と Boden(地=領土)
2009年12月16日付 Cumhuriyet 紙

トカトでの攻撃、民主市民党への解党命令、イスタンブルのタクスィム広場周辺でのピストル発砲やドネル包丁での殺傷・・・。「解決策」と呼ばれたこのプロセスは、始まって以来、しだいに深かまり、最近、新聞コラムでもよく取り沙汰されている不安は、不当だと言えるだろうか。

不安は当然のものである。何故なら、1923年に共和制の開始によって開かれた「可能性の門」を閉じるために、多分オザルの時代の「第二共和制」の言説によって加速したプロセスが最終段階に入ったからだ。今現在、宗教的な言説で抑圧できないような「Blut und Boden」(血と地、エスニシティと領土)の方程式(注)が政治の世界を顕著に支配しはじめている。歴史は、この方程式が内戦や虐殺を引き起こしてきたことを証明している。

*訳者注:この方程式の例として1930年代のドイツが参考になるだろう。

残念ながら我々はこの「状況」から「常識」や「善意」に基づいて脱却するこができない。「他者」言説や「多文化」の幻想に今以上に抱き付くことでこのプロセスを抑圧するのも不可能である。痩せたいから酢を飲みすぎて胃炎になった人をさらに酢を飲ませて治療できるわけがない。

■共和制の開いた門

多文化の帝国の瓦礫の上に、時代の国際的なバランスの中で、近代国家の樹立は、これらの民族的・宗教的な差異の超越によってのみ可能であった。それ故に共和制は「民族的・宗教的なアイデンティティー」を超越するような公民権によるアイデンティティーを法制化して、その実際の実現を近代的な資本主義経済及び民主的な国家構造の樹立に伴わせた。共和制の開いたこの可能性が十分に実現されえていないことは周知の通りである。しかし、この可能性の門が共和制によって初めて開かれたことは否めないはずである。
さて、共和制の開いたこの可能性の門に対して三種類の反応が生まれた。第一に、この門がこれ以上開かれるのに抵抗し、必要な場合に武力まで使用し、資本主義の発達と世界経済への追従を優先させた支配階級の反応が挙げられる。第二は、共和制の時代に周辺に追いやられた古い体制の知識人たちや宗教団体、エスニックなグループのリーダーたちからなる「マルチチュード」の反応である。彼らはこの門を閉じて共和制以前のアイデンティティーに立ち戻ろうと努力していた。そして、第三の反応は、国内外の権力関係や世界経済による抑圧(帝国主義)の手によって中途半端に終わった市民性(citizenship)を維持し、発展させるために、それを資本主義の地平を超越するような経済的・政治的基盤で支える必要があると信じる左翼の(社会民主主義者や社会主義者の)自己犠牲をいとわない努力であった。

■グローバリゼーションと共和制

1980年代以来、「経済を政治的な結果から、そして政治を経済的力学から切り離して、全社会をある文化的な平面に還元させる」ポスト・モダンでネオ・リベラルな思想が徐々に支配的になり、1990年代においてこれらに政治的イスラームも加わって一つの「リベラル・デモクラシー」のブロックが形成してきたのが見て取れる。

このブロックは、グローバルな資本主義の境界線を認め、民主主義というものを、互いに「承認し合っている」「他者たち」の、選挙で解決される一つの取引に還元し、リベラル・デモクラシー以外の総ての政治的選択肢を全体主義的な態度で拒否してきた。こうして、グローバルな資本主義の展開を減速させる二つの障害をコントロールできる「大いなる言説」が形成されてきた。

支障の一つは、それぞれの地域の政治的・経済的・文化的な抵抗を濃密化させながら拡大させ、市場や天然資源へのアクセスを妨げる能力を有する「国民国家」であった。もう一つは資本主義自体をナショナルそして/またはグローバルなレベルで目標としうる階級形成過程である。さらに、1999年から2003年にかけて、反グローバリズム運動やヴェネズエラの経験が指し示すように、この二つが互いを補充する可能性が高まっていた。

「他者」を承認するという倫理に基づくリベラル・デモクラシーの思想は一方で市民性(citizenship)を破壊し国民国家への抵抗を弱め、他方で階級形成を破壊し労働者のグローバル資本主義に対する抵抗を弱めた。だが、同時に、徐々に深まる経済危機や激化する国際環境の生み出した不信感や未来への不安のなかで個人たちは「他者」を承認しつつ、自分たちを他者の他者として定義付けるようになってきていた。この過程は「他者」を愛することではなく、彼/彼女を「生活圏」に浸透して自己の「統一性」を脅かす「異質な」要素として受け止める傾向を強化していた。ここから一歩先が「血と地(Blut und Boden)」の言説になるのは不可避であったのだ。

「クルド問題の解決策」は、上記の過程がかなり進んだときに議題に上ってきた。さらに、両側の死者の数が万単位で表現されていた。上述した三つの反応のうち、一つ目は「政治的イスラーム」の支配下に入って効力を失っていた。二つ目は、国際的な事象の影響もあって空前のレベルまで強化されていた。そうであるとするならば、この「血と地」言説を育てる状況から脱却する可能性は、三つ目の反応である社会主義の強化にしかないだろう。

今日、我々が直面しているのは「解決が不可能」な「状況」である。このような「状況」の際に、不可能を思考しなければならない。だからこそ、今日のこの「状況」から脱却する可能性はまずクルドの社会主義者たちの、この過程を食い止めるラディカルな反応を示す能力に依存している。こうしてはじめて、トルコとクルドの社会主義者や労働者が急速に強化されはじめている「血と地」言説に対して共同の闘争線を形成する機会を得る。でなければ、共和制が開いた門が閉じるにつれて、たいへんな苦痛を伴う過程の果てに、我々は「血と地」の原則に基づく二つの国家に直面するであろう。

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( 翻訳者:イナン・オネル )
( 記事ID:18097 )