Ismet Berkan コラム:扉を開き、閉じないこと―放り出された問題の行方
2010年03月10日付 Radikal 紙

もう忘れてしまっているかもしれないが、「クルド問題の民主的解決」や「民主主義への門戸開放」などについてはすっかり話されなくなってしまった。ついこの間までは熱く語っていたというのに。今ではそれらにとって変わって憲法改正案や、司法改革についての議論をしている。この議論はいったいいつまで続くのだろうか。そしていつになったら話題にならなくなるのだろうか。

問題は次のようなことなのである、多分。政府は、本当にこの国にとってとても重要な問題を議題にとりあげ、一定期間議論されるようにしているが、その後殆ど何もせず、問題をそのままそこに放置してしまっている。私の知人がこれについてこんなことを言っている。「政府は今まで誰もそのドアノッカーにさえ触りもしなかった扉の数々を、勇気をもって全部開けた、しかし開けたドアどれからも中へは入ろうとせず、そのドアを閉めもしなかったのだ・・・それらの扉は全て開いたままなのである」
間違ってはいない。
開かれた扉の中で一番重要なのが、EUの扉。いまだに開いたままだ。強いてEUだけを問題にするわけではないが、この扉がすぐに閉じられることを誰も期待していなかった、が、こうも長い間重要なことは何一つせず、このように開いたまま放置されることにたいして、失望しないわけではない。もともと、クルド問題も、司法改革も、文民統制の問題もすべてはEUに関係するものであるから。

それでは、政府はなぜ最初は意欲的に取り上げていた問題で急に立ち止まっているのか。
たとえば、もっとも簡単な例として、なぜ少なくとも未成年犯罪者が重罪裁判所で裁かれないようにする法律を作らず、これさえも駆け引きの道具にしてしまうのか。
または、政治的に野党の助け無しにはほぼ実現不可能だとわかっていながら憲法改正の問題を、しかも同時に国民投票という脅しつきででなぜ議題に取り上げるのか?
まず野党との協力を模索するとか、憲法改正のためにもっと簡単な方法を探すとか、それらがだめなら国民投票をも覚悟する態度を見せるとかがそんなにいやなのか?
我々はこの答えを知らない。私たちが知っていることと言えば、どの問題に関してでも、それに対し行われる何らかの国民投票は、政府ではなく野党に都合のいいようになるということである。こういう理由で、私は、彼らが憲法改正に本腰を入れないのではないかと思うのです。政府はこの段階で自分たちの力を試そうとはしないでしょう。
しかし、憲法改正を議題に上げておいて、何もできないということは一つのつけを残すことになる。そのつけは我々民主主義を愛する者、よりまともな国で暮らすことを望む市民が払う羽目になるのです。
閉じられない扉が開いたままになっていることにより生じるつけは我々が払うのであるなら、この分も我々が払うことになるのだ。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:智原幸穂 )
( 記事ID:18663 )