クルド系政党平和民主党デミルタシュ・インタビュー
2010年03月20日付 Hurriyet 紙


クルド政治運動の新しいリーダー、セラハッティン・デミルタシュ氏は、BDP(平和民主党)の党首に選ばれて以来、協調性のある人柄で注目されている。我々は、(彼の)これまでの生涯に関する初めてのインタビューを、(特にクルド系の人々が祝う)ノールーズ(3/21:春分の日)にちなみ、今回掲載する。

「兄弟4人、同じ小学校で学びました。注目されていました。全員とても勤勉で、清い心を持っていました。先生、校長先生、皆が私たちを大変好いていました。先生たちの愛情を失くさないために、努力しました。今もその心を持っており、悪口をいわれると、悲しく思います。私がある人を傷つけてしまったら、気になって、元通りにしようとします。」

「父は、働いていた村役場で配管の仕事を学び、その後、店を開きました。私も、法律を学んでいるとき、店で働きました。いつも学校にいかなくてはいけないということではなかったので、試験の時だけ、アンカラに来ていました。授業のノートをかりて、ディヤルバクルで勉強していました。蛇口の修理に行った家々で、「法律を勉強しています」と言うと、彼らは驚いていました。」

「党首になってからも生活は変えませんでした。アイロンさえ、自分でかけます。しかし、バーラマ(弦楽器の一種)を弾きたくてたまりません。いい声なんですよ。直近では、去年、国会議員たちに弾きました。もし状況が(私に)責任を負わせなかったら、ディヤルバクルに戻れたのに。子供たちを公園に連れていけたのに。国会議員として年をとることは想像していません。」

■クルド人であることを高校で知りました -ディヤルバクル人-

子供時代のディヤルバクルは、陽気に遊んだ道々、賑やかな市場のある場所でした。私の心に残っている唯一の辛いことは、1980年の9月12日クーデターの朝のことです。道を戦車と兵隊たちが占め、外に出ることは禁止でした。家族の一人が逮捕されました。いまだに、ディヤルバクルの境界に入る時から、(ディヤルバクルの外にいる時よりも)より楽に息ができると感じます。クルド人であることよりもディヤルバクル人であるというアイデンティティがより先にでていました。

母は、自分の努力で読み書きを習い、試験で小学校の卒業証書を手にしました。父は、今も読み書きが達者ではありません。二人とも、このことを辛く感じたため、7人の子供たちのを大学で学ばせました。1人が機械工、2人が弁護士、3人が先生になりました。
中学校では、下士官の仕事を考えていました。近所の下士官の子供たちと友達で、慕っていました。母と父は、二人の間ではザザ語を話していましたが、私たちには教えませんでした。自分たちのように大変な思いをしなくていいように、私たちとはトルコ語を話していました。クルド人という一つのエスニック・アイデンティティであることを高校で知りました。

■グループ名は「悲惨」、本当に「悲惨」でした

母と父に内緒で、クルド語の音楽を聞いていました。(クルド語の歌詞は)わかりませんでしたが、ワクワクしました。高校は、クルド・アイデンティティを知覚した時期でした。ある授業の時、外から声が聞こえました。大勢のグループがスローガンを叫びながら歩いていました。何が起きているのか、と言った時、先生が、クルド人がハレプチェ(ハラブジャ)で遭遇した虐殺(注:イラクのフセイン政権による化学兵器を使ったクルド人虐殺事件)のことを説明しました。しかし、高校では、政治運動には関わりませんでした。家族はつつましやかでした。高校で仲良くしていた親しい友達がいました。彼がバーラマを弾くことを3年目の年に知りました。たぶん、妬ましくて、すぐその日にバーラマを買いました。短期間で上手に弾き始めました。大学時代には、アマチュア音楽グループを結成していました。グループの名前は、クルド語で“Komabelangaz”(「悲惨」グループ)と言っていました。本当に「悲惨」でした。楽器はバラバラでした。クルド語の民謡、マーチ、特に、「グルー、プ・ヨルム」のチュルキュ、革命家のマーチを弾いていました。アフメト・カヤ、フェルハト・トゥンチュ、その時代の人気の曲を歌っていました。

■ヴェダト・アイドゥン氏の葬儀で、頭に閃光が走りました -人生のターニングポイント-

1991年に、HEP(人民労働党)党首であったヴェダト・アイドゥン氏が誘拐されたことは、ディヤルバクルで大きな怒りを生み出しました。遺体が見つかるまでの3日間、私は張り裂けそうな気持で過ごしました。葬儀が行われる道に向かって歩いているとき、あるグループの若者と出会いました。彼らは逃げており、巡査たちが棍棒をもって彼らを追いかけていました。私も、その若者たちと一緒に逃げ、その後葬儀に参加しました。マルディン門で、遺体が埋葬される時、銃弾が飛び、(皆によく)知られた事件(この事件で、多数の死傷者と逮捕者がでている)が起きました。その日、私は別の人間になったのです。私の人生の軌道が変わりました。私の頭に初めて政治的な閃光が走ったのはその日です。私の世代の青年が政治化した大きな要素は、その事件です。

■兄に弁護士が見つかりませんでした -法律を勉強することへの思い-

1990年、(高校)卒業の年に大学に受かりませんでした。第一希望は、すべて法学でした。8番目の希望であった、水産学科に受かりました。ある近所の人の勧めで希望したのです。自分にあった学校ではないことを、イズミルへ行くや否や理解しました。大学準備課程の2年目に進みました。その年、大学生たちに対して、警察のある捜査がありました。私はイズミルで、兄のヌーレッティンはムーラで逮捕されました。(警察は)私は釈放しましたが、彼はムーラの若者の責任者として逮捕しました。すぐにイズミルにきた母と父は、落ち込んでいました。私たちが、政治活動をしているとは思ってもいませんでした。兄に、長い間弁護士が見つけられませんでした。母はブレスレットを腕から外し、「お子さんを助けてあげよう」というある裁判官に与えました。これほどまでにみはなされているのか、との感情にとらわれました。私を再び法律に向けさせたのはこれです。その大志を持って、再び試験を受け、アンカラ大の法学部に受かりました。私の姉妹と二人の従兄弟の4人が共に法科に入りました。私たち全てが法律を目指したこと、弁護士を目指したことは、少し、このせいです。

■皆が山に入りゲリラとなるときに、君は学校で勉強しているのかい? -周囲からの圧力-

その時代、何千人もの若者が、山に行きました。(PKKに加わりました。)私も山に行くか行くまいかの間で、心がゆれました。母も父も、私たちが山に行くのではないかととても心配していたようです。後からそれをわかりました。友達からは、「皆が山に行っているときに、君はまだ学校で勉強しているのかい?」との大きな周囲の圧力がありました。これらを押しのけて、94年に学部に入学しました。政治活動には参加しませんでした。知識の場に気持ちを向け、クルド人運動に関する書物を読みました。全ての人を理解しようと、左派とリベラル派のことを知ろうと努めました。成功するという大志を持っていました。4年で卒業しました。DEP(民主主義党)の国会議員たちが、議会から逮捕されるのを学生食堂から見ました。その事件は、全てのクルドの若者のように、私にも忘れられないほど衝撃的な痕跡を残しました。

■検察官は窓から幹線道路を示しました -私に最も多くの痕跡を残した事件-

オスマン・バイデミル氏が、2000年に人権協会ディヤルバクル支部長となった時、私もその運営陣に加わりました。そのころから、この地域における人権侵害が、世界中でしられ始めました。しかし、私に最も大きな痕跡を残したのはHADEP(人民民主党)シロピ県支部長セルダル・タヌシュ氏と副支部長エブーベキル・デニズ氏の失踪でした。バイデミル氏は調査団を結成させました。シロピへ行き、家族と面会しました。(彼らは)県のジャンダルマ(軍警察)司令部へ行って、そこから出てこなかったそうです。目撃者がいました。私たちはシロピの検察官のところに行き、しつこく主張しました。彼は、低い声で、「ここで探さないで、シュルナクへ行きなさい」と言いました。私たちはシュルナクにいきました。私たちが部隊(のところ)にいかせろと要求すると、その検察官は、窓を示して、言いました。「その幹線道路がみえるだろう?軍警察を強制調査をしようものなら、その道の向こうには行けなくなる。」と。ディヤルバクルに戻る際、車をゆっくり運転しました。道路脇に目をやりました。死体があるかもしれない、と。今のエルゲネコンの逮捕者であるレヴェント・エルソズが、シュルナク部隊の司令官でした。バイデミル氏の後、私が支部長になりました。私は、アムネスティ・インターナショナルのディヤルバクル支部と、トルコ人権財団の創設者の一人でもありました。

■自分のアイデンティティを忘れないようにと娘たちにクルド語の名前をつけました -デラルとドゥルダ-

妻のバシャクと私は、私が法科に入った後、町でデートをするようになりました。私は必至の思いでプロポーズしたのですが、彼女も待っているようでした。翌年、ディズレ大学教育学部に受かりました。学校の先生になりました。2002年に結婚し、2人の娘がいます。一人はデラル、もう一人がドゥルダ。デラルは「かけがえのない」、ドゥルダは「愛しい」という意味です。子供たちに、自分のアイデンティティを忘れないようにと、クルド語の名前をつけました。二人目の娘の誕生の際、不幸がありました。妊娠7カ月だったにも関わらず、選挙の4日前、妻の容体が悪くなりました。医者は、出産が始まったこと、ディヤルバクルの病院の施設では、子供の命が助かる可能性が低いことを言いました。その日、ディヤルバクルの会合がありました。もちろん妻と子供を選びました。出産が始まったことを内緒にして、飛行機に乗り、アンカラに来ました。妻をハジェッテペ大病院に入院させ、その日のうちにディヤルバクルに戻りました。2007年7月22日の夜、開票の際、誕生の報せが来ました。娘は15日間、保育器の中で過ごしました。命は助かりましたが、(娘は)生後6ヵ月の時、度のつよい眼鏡を使い始めました。以前は眼鏡を後ろからゴムで結んでいましたが、もうすっかり慣れました。

■妻は心の底から「はい」とは言いませんでした -政治へ-

İHD(人権協会)の指導部にいた6年間は、弁護士の仕事はしませんでした。教師である妻の収入で生活していました。2006年に、短い期間兵役に行き、帰ってきてから弁護士の仕事に戻りました。私と伯父の息子(従兄弟)と妹の3人で、あちこちから借金をして事務所を開きました。数ヵ月後、選挙が行われることが決まると、立候補の圧力がかかりました。私は、周囲の人々と話しました。レイラ・ザーナ氏とハティプ・デズジレ氏の意見を聞きました。みな、私を励まし、力をくれました。妻が心の底から「はい」とは言わなかったのですが、私は決めました。国会議員が選ばれる時、私のナイーブで穏健な性格のため、友達が是非にとすすめました。私私は、物事をまとめることができるタイプだったので、会派代表になりました。

■1家族から2人の党首 -故オザル大統領たちと相似-

DTP(民主市民党)は、2年半のうちで、議会の枠組みの下、いい働きを見せました。民主的な政治態度を見せました。DTPのこの方向性は、憲法裁判所において考慮されるだろうと思っていました。解党審議が開かれた日、私たちは基本的な取り決めをしました。すなわち、もし政党が解党されたなら、みんな一緒に辞職しようと。しかし、クルド人からだけではなく、全ての民主主義的な人々から辞職するのではなく、議員として留まるべきだというプレッシャーを感じました。私たちはトルコを危機に陥れたくはありませんでした。議会に戻りました。それから後、私はBDP党首に選ばれました。私たちの以前に、同じ家族から2人の党首がでるというのは、故オザル大統領たちもそうです。(故オザル大統領の弟、コルクト・オザル氏も1997年に民主党党首になっており、1家族から2人が党首になっている。また、セラハッティン・デミルタシュ氏の兄、ヌレッティン・デミルタシュ氏は、元DTP党首である。)私たちの政治的な歩みは、ヌレッティンとは別に歩いてきました。確かに、ヌレッティンに向けられた信頼は、私にポジティブに影響しました。でも、2人が兄弟でなかったとしても、私の立場はそうかわってはいなかったでしょう。

■ヌレッティンを周りが間違った方向に導いた -偽診断書事件-

ヌレッティンは、家族のうちで最も穏健でした。もともと、政治的になったのは、刑務所で過ごした12年半のうちでのことです。2004年に出所して、3年の間でのDTPでの急激な出世は、原則主義的な姿勢と性格によるものでした。党首であった時、ディヤルバクルからエラズーでの大会に相乗りバスで行くほど慎ましい人でした。深刻な健康問題がありました。サポートするといって近づいてきた人々が、彼を誤らせました。体が悪いのだから何もしなくても、(兵役には)健康不適切、という診断書をもらえるところを、それをしらずに、偽造の診断書を得させようとしました。
彼はその犠牲者でした。その上、今は政治活動が禁止になりました。彼は、軍の国における影響力のテーマで、回想録を準備しています。ドイツには行っていません。ここにいます。

■双方に誤解があります -オジャランとハブル事件-

ハブル(でのPKKメンバーの投降)のあと、双方が失望を味わいました。トルコは隠されていたある現実に直面しました。何百、何千人という人がPKKの人々を歓喜で迎えたのを見て、「連中を気の毒に思う必要などなかったんだ」と言われました。共感は、その民衆に対しての怒りに変わりました。クルド人たちも、「トルコ人は、私たちが受けた痛みと平和への希求をわからないのだ。私たちをテロリストとみている。」と感じました。民族的な気持ちが前に出ました。オジャランは、クルド人の間では、民主主義的関係と、人権尊重の発展に貢献しました。平和のために働き、民衆は、彼を精神的なリーダーだとしました。反対の側では、テロ組織のリーダーのオジャランという印ができあがりました。二つの間に大きな溝があります。トルコだけで考えれば先進はありますが、しかし、人間の歴史の観点からみれば私たちは遅れています。アイデンティティの問題は、急いで解決されるべきです。トルコ人も、クルド人も、被害を被っています。解決すれば、クルド人の怒りが沸騰することなくなるでしょう、トルコ人たちも何も失うものはありません。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:能勢美紀 )
( 記事ID:18737 )