Murat Yetkinコラム:イノニューダヴトオール、歴史と再現
2010年03月21日付 Radikal 紙

ダヴトオール外相がナルバンジャン・アルメニア首相と会見する。彼はさまざまな努力により、アメリカ合衆国の偉大なる外交官であるヘンリー・キッシンジャーと並び称されている。彼は望んだ通りの結果を得ることができるのだろうか?

外交だけとは限らないが、しかしながら特に外交において何らかの手段が取られる時、それがどれほど影響力があるかではなく、結果が出たかどうかによって判断される。
結果が成功であったならば、その手段がとられたときに、それがどれほど影響力を持ち、巧妙であったかが重要になるが、失敗であったならば、その巧妙さは重要とはならない。
タイム誌は1941年5月19日号において、当時のイスメト・イノニュ首相を表紙に掲げた。1941年5月に第二次世界大戦が始まったが、アメリカもソヴィエト連邦もまだナチスドイツとは開戦していなかった。
日本が太平洋の真珠湾においてアメリカの海軍基地を襲撃し(1941年12月7日)、「眠れる怪物を目覚めさせることになろうなど」誰が予測できたか?
モスクワではヨシフ・スターリンが、彼の掌中にある最も有能なスパイたちの中の二人であるレオポルド・トレッペルとリヒャルト・ゾルゲがそれぞれブリュッセルと東京から命がけで送った情報、すなわちアドルフ・ヒトラーが1939年の(独ソ)不可侵条約を破棄するだろうという情報を気にもかけていなかったというのに。歴史上最も大きな軍事行動(4千5百万の兵が動員された)であるバルバロッサ作戦が行われた6月22日開始までまだ1ヶ月あった。
しかしバルカン諸国はこぞってナチスの影響下へ入っていた。
タイム誌がイノニュを(そしてトルコを)表紙にした理由は、ドイツがトルコに対して行った提案とこの提案によってかけられた圧力であった。
フランツ・フォン・パーペン在アンカラドイツ大使は、この提案について話し合うためにベルリンから戻ってきたばかりであった。アンカラではフォン・パーペン大使をイスメト・イノニュ大統領だけではなく、ナージ・シェヴケト・イラク防衛相も待っていた。
話題はイラクについてであった。ソヴィエトは北からイランの石油地帯へ、イギリスは南からイラクの石油地帯へと攻撃を進めていた。これの(勢力)均衡化を望んでいたドイツは、まずシリアに出て陸路にてイラクへ侵攻することを計画していた。しかし地中海のイギリス艦船がこの作戦を妨害した。残された道は一つであった。ドイツは、軍をブルガリアからトルコを通ってイラクへ向かわせようと考えた。このため貧しくひ弱なトルコに対して、あらゆる経済的・軍事的援助をほのめかした。そして約束では、ドイツ軍はトルコを通過することになっていた。ここでもう一度述べる必要性があるだろう。強大なナチスという戦争マシーンを前に、アメリカやソヴィエトという邪魔もまだその時点では存在せず、建国間もないトルコ共和国には現在のような強大な軍も、十分な兵器や食糧、ましてや衣服すらなかったのである。
タイム誌はトルコがはっきり「NO」と返事したことを、驚きと称賛をもって記事にしている。同誌は名前を明かしてはいないが(マレシャル・フェヴズィ・チャクマク参謀総長であることが予想される)、ある情報源からの言葉を次のように報じている。「自由を獲得するためにとても厳しく、長期間にわたる戦いを続けました。ドイツ軍が何食わぬ顔で(トルコを)通過することを軽視することはできません。トルコの独立を勝ち取るために戦った人々が今でもトルコを動かしていることを理解してもらわなければならない」
2003年にアメリカが石油地帯であるイラクでの戦争のために、何事にも抵触することなく、軍をトルコから(イラクへ)侵攻させようとした際、トルコを指揮していたのは独立のために戦った人々ではなかった。しかし彼らも事を軽視してはいなかった。それでも政府は「NO」とは言わず、「YES」と答えるために議会に(政府案を)提出した。議会にもトルコの独立のために戦った者はいなかった。それにも関わらずトルコ議会は承認しなかった。
これは一つの“継続”の例である。「対隣国懸念事項ゼロ(善隣外交)」政策は、公正発展党(政権)の時代に最初に行われたものではなく、もともと共和国の初期にムスタファ・ケマル・アタテュルクが「祖国における平和、世界における平和」という願いのもとに署名した「バルカン協商」や「サーダーバード条約」のような協調体制が今日まで継続したものなのである。
ワシントン(アメリカ政府)の集合記憶にはこうしたものはないのかもしれない。しかしアンカラ(トルコ政府)の集合記憶には、1941年のドイツの例を鑑みずに2003年にイラクへ陸路を通って侵攻するために(トルコを)抑えつけ、両国関係を最悪な状態にしたアメリカが、今度はイラン問題で不必要な圧力を加えようとするのではないかという懸念があるのだ。
アルメニア人虐殺法案がアメリカ下院外交委員会で承認されたのち生じた緊張状態が、どういうわけかアメリカが核開発疑惑(つまり再びエネルギーに関する問題)で、イラン(つまりトルコのもう一つの隣国)に対し制裁適用の要求をすることと関連付けられることで、この懸念は増大している。
アブドゥッラー・ギュル大統領が首相や外相を務めた時期の、政府の外交政策における影響力を加味しつつ、2002年から現在にいたるまで見られた外交政策がダヴトオール時代として命名されることを、ギュル大統領やタイイプ・エルドアン首相は認めるだろうか?
このように言うことができるであろう、(つまり)ダヴトオール時代の特徴はというと、トルコが冷戦と内政におけるイデオロギーの凝縮によって、ここ20年から30年の間その関係を阻んできたアラブやその他のムスリム諸国との関係を活性化させたことであったと。パレスチナ問題や特にハマスが活動の拠点としているガザに対して行われた侵攻によってイスラエルとの間で起きた問題は、トルコの対パキスタン、アフガニスタン、イランそしてシリア政策ではダヴトオール外相が中心になって立ち回っているということを明らかにした。軸転位とネオ・オスマン主義議論はこのようにして始まった。軸転位は、魅力的に聞こえるが、中身の充実化が必要な概念である。別の観点から見ても、もはや世界には転位する軸は残っていない。
ネオ・オスマン主義の概念はというと、これがよりイデオロギー的な先入観によって、多少ダヴトオール外相のイスラーム的アイデンティティを強調する目的で心理的な戦術として利用されているというのが私の意見である。この政府がオスマン主義の型にはまらないことを示すために、つまりロシアとの関係をひとつの例として示しうる。かつてオスマン人の最大の脅威は、30回も戦争を行ったロシアだったのだ。しかし現在、ロシアをEU加盟へのもう一つの可能性とみるNATOのトルコ人将校は別にして、タイイプ・エルドアン首相の最も重要な外交パートナーの一人はロシアのウラジミール・プーチン首相である。トルコがエネルギー需要をロシアに任せることをためらわなかったように、ロシアはトルコの最大の二国間貿易パートナーという立場にある。(アメリカはというと、イスラエルの影響によって形作られたイラン政策により、この地域におけるロシアの影響を徐々に拡大させていることに気づいてもいないようである)
もう一点(述べるべきことが)ある。最近のアルメニア議定書やアルメニア人虐殺(問題)による緊張関係の論争も示しているように、ダヴトオール外相のナショナリストとしてのアイデンティティはイスラーム的アイデンティティより下ではない。
ではダヴトオール外相がオスマン時代に生き、影響力を持つ立場にいたとしたら何をしただろうか?ダヴトオール外相は、イノニュと同世代としてオスマン帝国に生まれていたら、きっと彼もまた若い将校イスメト・イノニュのように統一と進歩委員会に入り、さらにはきっと知的才能をもってして委員会の中心メンバーの中に身を置くことができただろう。今日われわれの知るダヴトオール外相があの時代にいたであろう場所は、確信を持って言えるが、統一と進歩委員会だったはずだ。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:18744 )