ファディメ・シャーヒン、2月28日過程から13年素性を隠す
2010年03月21日付 Zaman 紙

2月28日過程で時の人となった後、裁判所の決定により名前と姓を変えたファディメ・シャーヒンは、政府の援助なしに自身の力によって13年の間、素性を隠していた。

サバフ紙の調べによると、ファディメ・シャーヒンは2月28日過程と称される一連の措置決定が取られた1997年の終わりに名前と姓を変えた後、2002年、M.Y.(メフメト・イイテル)と結婚していた。夫婦はしかし、2006年に離婚届けに判を押し別れていた。社会保障機構(SGK)の記録からは、ファディメ・シャーヒンが2000年から今日に至るまで一貫して働き続けていることがわかる。記録によれば、ファディメ・シャーヒンは頻繁に仕事を変えているものの、10年間、継続して働き続けている。しかしながら、記録簿に記されている仕事とシャーヒンが実際に働いていた場所が同じであるとは限らない。例えばシャーヒンは2009年、3ヶ月にわたりディヤルバクルの電気会社で働いていたと見られているが、本当にそこで働いたかを含めた情報の信憑性を示す資料は何も見つかっていない。

■名前を変えて素性を隠していた
名前と住所は伏せるが、ファディメ・シャーヒンが働いている工場での現時点での収入は1ヵ月あたり千トルコリラ(TL)(およそ6万円)である。シャーヒンは土曜日を含め、週6日働いている。(彼女に対する)安全を配慮し、最初の3文字のみを記すが、保険番号340………のファディメ・シャーヒンは、頻繁に仕事を変えている。職歴が長いわけではないが、シャーヒンにより支払われた保険の掛け金は2205日分に上ると見られている。

ファディメ・シャーヒンは買い物の際、クレジット・カードをほとんど使用していない。彼女はちょっとした買い物をはじめ、ほとんどの場合、現金で支払いをしている。2002年3月17日、4歳年下のM.Y.と結婚したシャーヒンは、結婚後T・A・Y.となった。ファディメ・シャーヒンの婚姻届にも、父母の姓がYを頭文字とするものに変えられていたことが明らかにされている。父ハサン・シャーヒンと母G・シャーヒンの姓が婚姻届に本来の名で記載されていなかったことも、シャーヒンの素性を隠すための一つの手段であると注目されている。

住民登録によれば、ファディメ・シャーヒンはゼイティンブルヌ第2家庭裁判所の2006年/395番の判決により、2006年6月29日に元夫と離婚していた。シャーヒンとM.Y.の間に子供はいなかった。38歳のシャーヒンは子供のいない淋しさを、二人の甥と姪のヤヴズ・セリムとアルザを可愛がることによって紛らわしている。ファディメ・シャーヒンとM.Y.との離婚理由は修復不可能なほどの不和として記録されている。両人は別れる際、離婚協定を結んでいた。それによれば、ファディメ・シャーヒンはM.Y.の起こした訴訟を受け入れ、その代わりイイテルから精神的および金銭的損害に対する慰謝料として4千TL(およそ24万円)を受け取った。T.の名で署名された2006年6月29日付け協定の条件により、シャーヒンは元夫からこの慰謝料以外、生活費も求めなかったという。
協定では、家にあったパソコンと洗濯機がファディメ・シャーヒンに分与されるという事細かなことに至るまで、裁判所によって公的に取り決められていた。このことからは、シャーヒンの経済状況が決して良いものではなかったことを窺うことができる。シャーヒンは経済的に豊かであるとはいえない。財産登録書によれば、彼女はマラティア県のアルグヴァン郡ヤズバシュ村にある、分割地である4つの畑と石レンガ造りの家(のみ)を所有している。これらの不動産はシャーヒンが家族から譲り受けたものである。

■改名後の名は受け入れられず
ファディメ・シャーヒンはM.Y.と結婚する際、T・A・Yと略される名で婚姻届に署名をしていた。しかし、彼女は母親であるG・シャーヒンにとって今なおファディメである。サバフ紙情報部の調べよれば、シャーヒンの母は、娘が名前と姓を変えた後も、普段はファディメという元の名で娘を呼んでいるという。あるショッピング・センターのおもちゃ売り場で二人の姪とおもちゃを見ている娘に対し、彼女の母親が何度もファディメと声を掛けていた。改名後のTで始まる名は、おそらく家族の間で使用されていないのだろう。

1ヵ月に1度ではあるが、ファディメ・シャーヒンは彼女が暮らす町から船を使ってイスタンブルにやってきて、その地に住む母や兄弟、そして甥たちと共に過ごしている。ある日曜日には甥たちとショッピング・センターへ行き、彼らがおもちゃコーナーで遊んでいるのを携帯電話で動画撮影していた。この間、彼女は自身の姿を撮られていたことに気付いてはいなかった。

■1000TL(約6万円)の給与で働いている
母親であるG・シャーヒンは、娘が名前と姓を変えた後も、普段はファディメという元の名前で娘を呼んでいる。おそらく改名後のTで始まる名は、家族の間では使用されていないのだろう。公的書類によれば、ファディメ・シャーヒンはマラトゥヤ県のアルグヴァン郡ヤズバシュ村に、分割地である4つの畑と石レンガ造りの家を所有している。SGKの記録によれば、ファディメ・シャーヒンは頻繁に仕事を変えているものの、10年間、働き続けている。

■サインをも変えた
アジュズメンディ教団の指導者であるギュンドゥズと共に(警察により)急襲をかけられた後、ギュンドゥズと偽シャイフのアリ・カルカンジュを批判する声明でテレビ視聴率、新聞売上記録など様々な記録を打ち立てたシャーヒンは、新しいタイプのクーデター(2月28日過程)の後、裁判所の決定により新しい名前を得るとそのサインをも変更した。このことは、メフメト・イイテル(M.Y.)結婚する際の婚姻台帳に著名したTを頭文字とする署名からも確認することができる。

■13年間、素性を隠していた
ファディメ・シャーヒンは13年間、自身の素性を隠すために多大な努力を払ってきた。スキャンダラスな報道をされ世間に顔が知られるようになった後、シャーヒンが最初に行ったことは2月28日過程と称される一連の措置決定が取られた1997年の終わりに、名前と姓を変えることだった。シャーヒンは2002年にコンヤ出身のM.Y.と結婚した。夫婦は2006年、離婚協定書にサインし離婚した。

■あの日から何が変わり、何が変わらなかったか
ファディメ・シャーヒンは1997年、新聞記者たちへ行った発言の中で、自身が結婚をしないこと、また「私と結婚する人は勇敢でなければなりません」とも述べていた。その後、彼女は2002年に年下の男性と結婚したが、後に離婚した。

シャーヒンは時の人となったが、この時代よくあるような、つかの間の名声でお金を儲けることはできなかったし、しなかった。2月28日過程の後、「ファディメ・シャーヒンの回想録」という題の本を執筆、出版したが、これは彼女の名前でお金を儲けるには十分ではなかった。

経験した出来事によって負った傷をまだ所々に抱えているとはいえ、彼女はもはや自信をもった都会に暮らす一人の若い女性として、働きながら日々の糧を得ている。

当時、あるルポルタージュで「もはや死んだ人間も同然です」と語っていたが、この懸念は本当のこととなってしまったようである。彼女は社会的な人間関係において、ほとんど誰とも接点を持たずに暮らしている。彼女は外にでると、今なお人々の視線が常に自分に向けられていると思って、おびえ、心配するのである。

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( 翻訳者:西山愛実 )
( 記事ID:18745 )