「アタテュルクの実の息子」を名乗る人物登場―アンタリヤ
2010年07月10日付 Milliyet 紙

ハベルチュルクの報道によると、16年間アタテュルクの息子であると証明しようと努力している80歳のハリル・イブラヒム・アタライ氏は、真実が明らかになることが恐れられていると主張し、苗字として使うことを望んでいるアタテュルクの財産が自分に与えられるよう望んでいる。アンタリヤで暮らすアタライ氏は今日までに欧州人権裁判所(AİHM)を含め9回の裁判を起こしており、この主張を証明するためDNA検査が行われることも望んでいる。

アンタリヤで暮らす80歳のハリル・イブラヒム・アタライ氏は、16年間アタテュルクの息子であると証明しようとしている。ハリル・イブラヒム・アタライ氏は今日までに起こした、AİHM での1回を含む9回の裁判で「棄却」の判決を受け、DNA検査が行われれば真実が明らかになるだろうと述べ、苗字として使うことを望んでいるアタテュルクの財産も自分のものとなるべきだと述べた。

■ 「狂っていると思われている」

ハリル・イブラヒム・アタライ氏はアンタリヤのギュゼルオヴァ地区で60平方メートルの1階で貧しい中暮らしており、16年間自分がアタテュルクの息子であることを証明しようと努めている。アタライ氏はアタテュルクに6年間仕えたナーズィレ・ハヌムの息子であるとし、自営業者年金受給者であり、テキルダーとアンタリヤで起こした裁判の成果がないことで自分はひるまないとし、資金の目処が立てば新たな裁判を起こすと述べた。

アタライ氏は「アタテュルクの息子であるという事実を明らかにするために生涯戦い続ける」と述べ、「テキルダーとアンタリヤで8つの別々の裁判を起こした。判事は私を認めたがらない。裁判は取るに足らない理由で閉廷され、さらには気が狂っていると思われて病院に送られた。私の精神が正常であるという検査結果を受け取った。一度DNA検査を行っていたらアタテュルクが私の父であることが明らかになっただろう」と述べた。

■ 「母が言った」

ハリル・イブラヒム・アタライ氏は真実が明らかになることが恐れられていると述べ、「アタテュルクが私の父であることを1961年に知った。疲労のため病院に行った際、医師らは血液検査の結果が珍しい状態であり、家族からの遺伝であると述べた。親戚には同じ特徴を持つ者がいないため驚いて母に尋ねた。母は泣きながら父はアタテュルクだと述べた。公証人に連れて行こうと思ったときには、母は病気になって亡くなった」と述べた。

■ 「検査が明らかにする」

アタライ氏は4歳の時にアタテュルクを見たことを覚えていると述べ、「事実を知った後15年沈黙を守った。その後知り合ったある退職した裁判官に状況を説明した。その元裁判官は私が表に出ると家族が被害を受けうると言ったので怖くなって沈黙した。子供たちが学校を卒業し、仕事を持つと1994年に裁判を起こすことを決心した。最初の裁判は私が生まれたテキルダーのムラトル郡で起こした」と話した。

アタライ氏は最初に起こした裁判が認められなかったがその後新たな裁判を起こしたと説明し、「約4年前に欧州人権裁判所に訴えた。私に送られた返答では私が十分な情報を示していないと書かれていた。裁判所に唯一望むのはDNA検査の実施である。事実はその時明らかになるだろう。アタテュルクの苗字を使いたい。その後、アタテュルクの財産が与えられるよう要求する」と述べた。

■ 「私は諦めない」

ハリル・イブラヒム・アタライ氏はイスタンブルで時計屋をやっている一方で年金受給者であり、収入が低いためかろうじて生活しているが戦いを諦めないと述べ、「金がないので弁護士を雇うことができない。私を信じる人が現れるまで努力する」と述べた。

ハリル・イブラヒム・アタライ氏は母ナーズィレと父として知っているイブラヒムの息子ヒュセインがブルガリア移民であることを明らかにし、次のように述べている。「母はアリの娘ナーズィレで、イブラヒムの息子ヒュセインは名付け親である。母はムラトルの家に住んでいた時、近所の女性たちを訪問した。その中にアタテュルクが滞在した農園の所有者の奥さんもいた。彼女は母を清潔でいい人間だと見ると、農園で働かないかといってきた。」

■ 「足を洗った」

母は、1928年にハサン・トスンの農園で働き始めた。3か月後、アタテュルクが農園にやってきた。母はアタテュルクに仕える仕事につかされた。母は、アタテュルクがくるたびにハサン・トスンの農園に滞在した。足を洗い、コーヒーを出し、彼に仕えた。母はこの間1929年に妊娠し、1930年に私を産んだ。母はアタテュルクに彼の息子であると言い、アタテュルクは私が息子であると認める手書きの書き付けを母に与えた。母はこれをアタテュルクの服の1着のポケットにいれた。この服は現在アタテュルク廟に展示されている。1934年にアタテュルク自身が私に「アタライ」という苗字を与えた。

■ ユスフ・ハラチオール教授(元トルコ歴史協会会長):深刻に受け取るべきではない

私たちは近年アタテュルクの息子、娘、親戚であると主張する多くの人間と出会っている。これらが真実であるかはわからない。記録も他のいかなるものもない。私は深刻に受け取りすぎないことが必要であると考える。それぞれが勝手なことをしゃべっているからである。この種の情報はセンセーション以外の何も産まない。

■ ムラト・バルダクチュ氏(ハベルチュルク紙出版コンサルタント):神が理性をくださるよう

現在までに私が会った、おそらく50番目のアタテュルクの子供という主張である...。これらの主張はそれぞれの理由で提起されている。あるいは気が狂って自身に父としてアタテュルクのみが相応しいと思い、あるいは本当に信じている。もっともたちが悪いのは信じ込んでいる人々である。アタテュルクの、特に晩年についてはすべて詳細に知られている。彼と親しかったものは、ずっと以前に提起されたこうした主張を笑っていた。神が理性をくださるように。

■ メティン・フラギュ教授(歴史学者・カイセリ大学副学長):主張の域を超えない

最初に脳裏に、この種の主張を提起する人の精神のバランスは正常であるのか、目的は何かといった疑問が浮かぶ。このような主張が深刻に受け取られるためには DNA検査が必要だからである。これも行われうることではないように思われる。アタテュルクの本当の子供がいるかという問題は脇に置いて、アタテュルクの養子の数さえ完璧にはわかっていない...。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:19656 )